私は障害者の家族なのに人の痛みが理解できない
私は、障害者の家族である。
けれども、人の痛みが理解できない
私には4歳年上の兄がいる。
その兄は障害者である。
兄と共に生きてきた40年弱。
私は結婚をして離婚をして、さらにまた結婚をして。
兄は変わらず、ずっと障害者のままだった。
障害者の家族として生きるのは、時に悩み多く、時にやるせなく。
そして、けっこう平凡だ。
障害者の家族がいるからドラマティックな人生になるというわけでもない。
あまつさえ、それを糧に立派な人間に成長するというわけでもなければ、人一倍優しい人間になるということもない。
一般的には、障害者の家族を持つと苦労が多くなり、人の痛みが理解できる人間に成長できるという話を耳にする。
だが正直に言おう。
私は、人の痛みが理解できない。
もしかして、私は障害者の家族として生きる事をサボってきたのだろうか。
私は、障害者の家族としての生き方を間違ったのだろうか。
なんの因果かどう考えても私という人間は、人の痛みが理解できない。
◇人の痛みを理解できずに起こった事件たち◇
例えば、こんな話がある。
前夫に、ちんちんが勃たないという現象が起こった。
ちんちんが勃たないという現象に対して、なんの関心もなかった私は、適当にあしらっておいた。
それが、男性にとってとてつもない大事件であるという事なんて知る由もない。
結局、すげなくあしらった事が彼の逆鱗に触れて、離婚に至った。
また、こんな話もある。
現夫が自分の体調不良について相談してきた際に、どうやら現夫はガンを疑っていたようで、ひどく不安になっていたらしい。
その相談を、鼻くそをほじりながら聞いた事がこれまた彼の逆鱗に触れ、離婚寸前にまで至った。
こうして何度も痛い目に遭いながらも、あいも変わらず私は人の痛みが理解できず生きている。
残念な事に私は、障害者の家族としていただけるはずのギフトをいただけていないようである。
せっかく障害者の家族として生まれてきたのに、めちゃくちゃもったいないような気もするが、仕方がない。
ないものはないのだ。
ただし、ここでいじけないのが私の良い所である。
人の痛みが理解できるギフトをもらえなかったなら、自分から掴みにいこうぜ!
と意気込み、ここ数年は『人間理解』なるものに取り組んでいる。
◇人間理解で人の痛みを理解できるようになれるのか◇
はて、人間理解とは何か。
言うなれば、『なぜ男は包茎を恥じ、女は巨乳に憧れるのか』という謎について、正面から向き合おうというのが、人間理解である。
世間で当たり前だと思われている事や自分の中にある思い込みをわざわざ掘り起こし、その当たり前を疑い、真理に迫ろうというのが人間理解なわけである。
『男の浮気は本能である』という通説に対して、そんじゃあ本能って何よ?という事をとことん掘り下げていくのが、人間理解なわけである。
私は、この人間理解を提唱し活動する師匠の元で学ぶ事にした。
そこから師匠の元に集まる仲間と共に、七転び八起きしながら造詣を深めてきた。
学び出した当初は、人間理解とは他者を理解する事だと受け止めていたが、師匠からは、人間理解において最も肝心な事は自分を理解する事である、という教えを授けてもらった。
そんな師匠との対話の中で、自分の考えを整理したり人生に対する問いを立てるが、どうにも肝心の自己理解が進まなかった時、「たなかさんには背後から襲われそうな緊張感がありますね。」などと淡々と言われたりもした。
それまで、”オイラって癒し系じゃね?でへへ”などと自己理解していた私。
この強烈な事実を師匠から伝えてもらい、ようやく自己理解を改められた。
そもそも、人の痛みが理解できない以前に、自分の痛みも正確に理解できていなかった。
平凡だと感じていた自分の人生だったが、できるだけ波風立てずに生きようと、自分の人生から目を逸らしていただけだった。
本当の事を言おう。
私は、ヘラヘラしながら、その内側で結構いろんな事に怒っていた。
障害者の家族だから、立派な人間になれるとか、人一倍優しくなれるとか、人の痛みを理解できるようになれるとか、そういう詭弁に結構怒っていた。
少なくとも、私という障害者を家族にもつ人間にとって、そんな詭弁は何の役にも立たない。
そんな言葉で、私の人生は救われない。
そんな綺麗事よりも、兄がこの先心配なく1人で生きていけるだけの金が欲しい。
人に騙されて変な書類にサインしてきてしまう兄が、両親が死んでも私が死んでも困らないような仕組みを作ってくれ。
家族にだけ押し付けるな。
他人事にするな。
社会全体の問題として認識しろ。
そんな風に結構私は怒っていたのだ。
誰に対してではない。
私のこの怒りは、誰に向ける事もできない。
誰も悪くない。
それを知っていたから、この怒りを私はずっと内包していたのだ。
師匠はきっとそんな私の怒りに気づいていたのだろう。
障害者の家族なのに人の痛みを理解できない自分、といういびつさを披露する私に対して、師匠が背後から襲われそうな緊張感を感じ取ったのは、当然だったのだ。
背後から襲われそうな緊張感を与える私に対して真実を告げ、さらにはいつまでも自己理解の進まない私を見限らず見守ってくれた師匠には、ありがたみしか感じない。
師匠、サンキュー。
私の怒りに気づいてくれて、サンキュー。
背後から襲いそうな緊張感あるのに、仲間外れにせず、あたたかく見守ってくれる仲間、サンキュー。
私の怒りに気づいても、私が自分で気づくまで見守ってくれてサンキュー。
こんな風にして、私は自分の痛みにまず向き合った。
師匠から学ぶ人間理解を通して、人の痛みを理解するより先に、そうやって自分の痛みに向き合っていった。
◇私は、人の痛みが理解できない◇
師匠や仲間達と出会い、人間理解をやるようになって、気づけばあっという間に数年が経っていた。
色々なことがあった。
コミュニティに新しく現れる仲間がいて、去る仲間もいた。
なんと師匠はもうじき引退するらしい。
けれども、相変わらず私は人の痛みが理解できない。
だって、私は人の痛みを理解できるようになってはいけないのだ。
私はそうして、障害者の家族は人の痛みをうまく理解できるようになる、という詭弁に必死に抗っているのだ。
障害者の家族という人生は平凡である、と冒頭で私は述べた。
平凡であってほしいと、私は強く願っている。
特別な事でもなく、誰の身にも障害のある家族を持つ可能性はある。
障害者の家族の人生を特別なものにしてはならない。
障害者の家族だからといって我慢する事もなければ、失うものもあってはならない。
障害者の家族だから、立派にならなくてもいいし、人一倍優しくならなくてもいい。
そして、障害者の家族という理由で、人の痛みを理解できなくてもいい。
私には、障害者の家族には与えられるといわれる、人の痛みをうまく感じ取るギフトは与えられなかった。
いや、受け取りを拒否したのだ。
障害者の家族として人の痛みを理解するよりも、ただの平凡な一人の人間として、人の痛みを理解し成長する事を望んだのだ。
そうして、師匠に出会い、仲間に出会った。
私は、自分で選んだのだ、この人生を。
障害は神様からの贈り物、という話がある。
特別な家庭に与えられる神様からの贈り物。
とても美して、そんな話に憧れた事もあった。
でも、そんな詭弁はもうたくさんだ。
障害者と共に生きる事はただの日常である。
平凡な日常である。
そうでなくてはならない。
私はそんな世の中がいい。
障害者の家族が、立派にならなくても、人一倍優しくならなくても、人の痛みが理解できなくても、ただの平凡な人として生きられる、そんな世の中がいい。
だからもう一度言おう。
私は障害者の家族なのに人の痛みが理解できない。
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