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松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、2017年)を読む。

私は、一箱本棚オーナーシステムの私設民営図書館「みんとしょ」のアンバサダーという役を拝命しているのですが、なかなか研究等以外の本を読むことができないので、今年は、せめて1か月に1冊は読み切る本を作ろうと考えました。
ということで、1月は、みんとしょ「Cの辺り」の仲間から紹介された『うしろめたさの人類学』を読むことにしました。

この本の帯の裏の方には、「市場、国家、社会・・・断絶した世界に「つながり」を取り戻す。エチオピアをフィールドにする人類学者が11年かけて書いた力作。」とあります。

これは、ミシマ社の本でした。ここの平川克美『共有地をつくる』は読ませていただいていましたし、以前、みんとしょ『夢中飛行』の店主から紹介されて購入した雑誌の『ちゃぶ台』もミシマ社のものでした。ここの出版社の本は、私に読んでみようと思わせる傾向があるようです。

この本は、第72回毎日出版文化賞特別賞を受賞し、多くの人に読まれ、書評もいろいろ出てますので、改めてそうした記述はしません。
私がいいなと思ったところを書き出すということにしたいと思います。
なぜ、そこがいいか、そこに書かれていることはどういうことなのかは、やはりこの本を読んでみないとわからないと思います。気になる方は、是非、読んでみてください。

冒頭、研究等以外の本と書きましたが、読んでみると、私の研究分野の公共政策学、立法過程論、多元的政策提言等における本質論的な部分に関する記述とも言えるものが多々あり、そうしたことからも、書き出してみようという気になったのでした。

以下、本からの抜粋、書き出しです。

ぼくたちはどうやって社会を構築しているのか

ぼくらは、人にいろんなモノを与え、与えられながら、ある関係の「かたち」をつくりだす。そして同時に、その関係/つながりをとおして、ある精神や感情をもった存在になることができる。つまり関係の束としての「社会」は、モノや行為を介した人と人との関わり合いの中で構築される。そこで取り結ばれた関係の輪が、今度は「人」を作り出す。

ぼくらが何者であるかは他者との関係のなかで決まる。身近な他者が何者なのかも、あなたがなにをどのように相手に投げかけるかによって変わる。あなたの行為によって相手は何者かになり、相手からの呼びかけや眼差しによって、あなたは何者かであることを強いられたり、何者かになれたりする。
ぼくらは、強固なかたちで最初から「何者か」であるわけではない。ぼくらが他の人にいかに与え、受けとるのか。それによって生じる関係のなかから「わたし」や「わたしたち」が生まれ、「かれ」や「かれら」が生まれている。

いったいどうしたら、その社会を構築しなおせるのか

社会の現実は、ぼくらが日々、いろんな人と関わり合うなかでつくりだしている。

あなたが、いまどのように目の前の人と向き合い、なにを投げかけ、受けとめるか。そこに「わたし」をつくりだし、「あなた」という存在をつくりだす社会という「運動」の鍵がある。

相手になげかけられる言葉、与えられるモノ、投げ返される行為。そこで見えてくる「わたしーあなた」という関係、「わたしたち/かれら」という存在のかたち。そのどれをとっても、一時も動きを止めているものはない。
ぼくらを動かし、動かされ、そのつどある「かたち」を浮かび上がらせている「関係としての社会」。とどまることなく、否応なしに、誰もがこの運動の連鎖のただなかにいるからこそ、ぼくらは、その社会を同じように動かし、ずらし、変えていく可能性に開かれている。

与える。受けとめる。いま「わたし」と「あなた」をつなぎ、つくりだしている動きを見定める。もしそれを変えたいのであれば、それまでとは違うやり方で与え、受けとり、その関係の磁場を揺さぶり、ずらし続ければいい。

よりよい社会/世界があるとしたら、どんな場所なのか

努力や能力が報われる一方で、努力や能力が足りなくても穏やかな生活が送れる。一部の人だけが特権的な生活を独占することなく、一部の人だけが不当な境遇を強いられることもない。誰もが好きなこと、やりたいことができる。でも、みんなが少しずつ嫌いなこと、負担になることも分けあっている。

つまり、ひとことで言えば、「公平=フェア」な場なのだと思う。

社会へのポジティブな思いが醸成され、その実現が支援される。ネガティブな気持ちにも、声をあげ、耳が傾けられる機会がある。多様な生き方や価値観が許され、それぞれが違った役割を担える。同時に、その差異をつなげ、共感し、調停する仕組みもつくられている。

公平な世界はどのように作られるのか

おそらく公平な世界を実現するのは、革命的な手法ではない。すでにぼくらが手にしているもののなかに、それをつくりだす道具がある。なぜなら、大切なのはバランスを取り戻すことなのだから。秘策も、魔法も、必要ない。

この世界を動かしているようにみえる国家や市場というシステム。ぼくらが日常的に繰り返しているコミュニケーション。どちらも、「わたし」と「あなた」が有形・無形のモノをやりとりしている同じ平面上にある。社会/世界は、人とモノが行き来し、配置される、そのやり方のなかに生じている。それが、この本で描いてきた見取り図だ。

その平面で起きているやりとりを一つひとつ解きほぐしながら、バランスを乱す要因をみつけ、調和を取り戻す可能性を探る。それを丹念に続けるよりほかない。

公平さというバランスを取り戻すために

公平さというバランスを取り戻すために、ぼくらは現実についての認識をずらしたり、物や財を動かしたりすることで対応している。モノを動かす動かし方は市場での交換、社会のなかでの贈与、そして国家による再配分があった。

国家や市場のやることには、かならず抜け落ちる部分がある・・・。

まず、知らないうちに目を背け、いろんな理由をつけて不均衡を正当化していることに自覚的になること。そして、ぼくらのなかの「うしろめたさ」を起動しやすい状態にすること。人との格差に対してわきあがる「うしろめたさ」という自責の感情は、公平さを取り戻す動きを活性化させる。そこに、ある種の倫理性が宿る。

こうして、倫理性は「うしろめたさ」を介して感染していく。目を背けていた現実への認識を揺さぶられることで、心と身体に刻み込まれている公平さへの希求が、いろんな場所で次つぎと起動しはじめる。

それまで覆い隠されていた不均衡を目のあたりにすると、ぼくらのなかで、なにかが変わる。その変化が世界を動かしていく。

わたしにできること

ぼくらにできるのは「あたりまえ」の世界を成り立たせている境界線をずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること。

それで少なくとも世界の観方を変えることはできる。「わたし」が生きる現実を変える第一歩になる。その一歩が、また他の誰かが一歩を踏み出す「うしろめたさ」を呼び寄せるかもしれない。その可能性に賭けて、そろりと境界の外に足を出す。それが「わたし」にできることだ。

いまは、これまで築かれてきた境界線を試行錯誤しながら引きなおしていく時代なのだと思う。市場や国家を否定する必要はない。過度な批判は、むしろ市場や国家を、自分たちの手の届かない「怪物」に仕立て上げてしまう。自分たちがその手綱を握っていることを意識しながら、一人ひとりの越境行為によって、そこにあらたな意味を付与し、別の可能性を開いていく。それが重要だと思う。

このように、松村氏は、分かりやすい言葉で、分かりやすく考えをまとめて書いてくれています。この本を読んで、自然にこれらの言葉が私にも入ってきました。ありがたいことです。

みんとしょのつながりの中で、次にどんな素敵な本と出会えるか。そういう出会いを大切にしていきたいと思います。


この本を紹介してくれたことに感謝。


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