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『分野を横断する「越境性」と、ヒエラルキー間を往来する「超越性」』これからのスポーツに必要な人材とは——。

この分断の世界を自在に泳ぎ回り、複雑性を喜ぶ、新しい創造のあり方とは何だろうか。われわれはその兆しを越境性という言葉の中に見出す。それは複数の領域や要素を行き来する「振り子の思考」を持つことである。「デザイン・エンジニアリング」という言葉は「デザイン」と「エンジニアリング」という分化し乖離した2つの領域を往来しようとするわれわれの意志の表れだ。

『デザイン・イノベーションの振り子』より

思えばヨーロッパに行くことで、サッカーの中に「ゲーム」と「カルチャー」を見出し、それまでサッカーを「ゲーム(競技スポーツ)」としか見ていなかった私は、突如その周辺に視野を広げるようになった。

その後アルゼンチンに行くことで、私はまた新たな視野を持った。サッカーの中に「チーム」と「クラブ」の2つを見たのである。それまで自分の中にあった「サッカーチーム」という単位は、それだけでは成立しない(「サッカークラブ」の中にある)分解要素であったことを突き付けられることになる。

こういったバックボーンが、私の仕事の仕方や、サッカーというものへの興味関心の持ち方を定めていったのだと、今では理解をしている。

つまり、サッカーの中にある「ゲーム」と「カルチャー」、また「チーム」と「クラブ」、それぞれが(無意識に)分解されバラバラに存在していた状態から、それらを統合的に捉えるに至ったことが、私のこれまでのアクションと現行を説明する。

そしてそれは、日本のサッカー全体、ひいては、日本のスポーツ全体への課題意識へと繋がっていくのである。


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今日、何かを生み出す行為には、多数の専門性を有機的に組み合わせるプロセスが必要となっている。それがわれわれに専門性をまたぐ越境を要求し始めていることは先に述べた。時代は、それぞれの要素を個別に扱うのではなく、統合的に、複雑なものを複雑なままに扱い、それらを折り上げ、繋ぎ込むことを要求している。そこで「デザイン・エンジニアリング」というコンセプトが登場することになる。

『takram design engineering|デザイン・イノベーションの振り子』 (現代建築家コンセプト・シリーズ18)より


このことについて考えるのに、上で引用した著書は大いに役に立った。

東京とロンドン、ニューヨーク、上海をベースにするデザイン・イノベーション・ファーム Takramによる「デザイン・エンジニアリング」というコンセプトについて書かれた本だ。

本書の言わんとすることを説明するために、少々長くなるが以下に引用したい。

takramにはデザイン・エンジニアと呼ばれる新しいタイプのプロフェッショナルたちが集まっている。このデザイン・エンジニアの定義を形式的に表すと、エンジニアリングとデザインの両方の専門的知識や経験を経て、2つの専門性を得た状態の人間ということになる。(中略)前章で述べたように、細分化された専門性とそれを束ねる組織構造、つまり企業という機構モデルは、たいへん効率のよい問題解決機構として世の中に行き渡った。それに対して、デザイン・エンジニアの役割は、この機構が苦手とするテーマを扱うことだ。つまり、前例がなく過去の経験が活かしにくいテーマ、0から1を生み出すようなテーマを扱うことである。
このようなハイブリッド・タイプの人材は、B(Business)、T(Technology)、C(Creativity)の三角形のモデルで理解することもできる。新しい物事を起こすためには、このBTCのトライアングルをいかに調和的に作り上げていくかということがポイントとなる。デザイン・エンジニアはこのBTCの中でTとCを受け持つ。

本書より

私はサッカー(あるいはスポーツ)の世界にこそ、このような人材が必要なのではないかと確信している。つまりスポーツというコンテンツに内包されている「ゲーム」と「カルチャー」、「チーム」と「クラブ」をバラバラのものとしてではなく統合的に創造するために、分野を横断する「越境性」と、ヒエラルキー間を往来する「超越性」を持っている人材のことである。

本書に書かれているように、最初からこのように複数の専門性を飛び越えていくようなスキルや経験を持つ人間はいない。まずは、ひとつの分野でプロフェッショナルとして通用するレベルの経験を積み、その後、その分野に隣接する分野の仕事を少しずつ積んでいくことで、2つめの専門性を獲得していく(越境性)のだ。また、既存の機構おいては経営者たちが持っている、鳥の目と虫の目を行き来するような、俯瞰とメタを往来する、設計と現場を行き来するような超越性を身につけるためには、経営者もしくはそれに近い人々の判断基準や言動に間近に触れ続けることにより、ゆっくりと形成されていくものであり、一朝一夕に得ることが難しいものであることを理解する必要がある。


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日本のスポーツの現場において、特に「越境性」を兼ね備えた人材が生まれないのには、納得感がある。

私もこれまで多く言及してきているが、日本において、子供の頃からサッカー(スポーツ)を真剣にするような環境では、その他の分野や領域に興味を持つ隙すら与えられていないのが現状で、将来的にその世界で生きていくような人々は、まさにそれを体現するような人材となってしまうからである。

私は無意識にこれを避けて生きてきたようにも思え、それが現在のキャリアプロセスを形作っているように感じている。コーチングとブランディングを同じ机に置き、同時に担っていく経験をするという選択は、いわば「設計者」と「実装者」のヒエラルキーを往来するような作業であり、「ゲームとカルチャー」を、「チームとクラブ」を繋ぎ合わせる行為なのである。

「越境性」と「超越性」は、これからの私にとって、またスポーツ界にとって、極めて重要な概念であることは、ほぼ間違いない。

スペシャリストによる分業制が当たり前になった競技スポーツの世界だからこそ、それらを統合する役割をもったコンセプトと人材の重要性は、日に日に増していくからである。


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このような視点を持った時、私にとって「創り出したいもの」というのは、役職や立場が変わったとしても、これまでもこれからも変わることはないだろうと思う。サッカーをチームとして(だけ)ではなくクラブとして捉え、ゲームとして(だけ)ではなくカルチャーとして捉え、統合的に向き合う。

そのいく先は「強くなること」そして「クールになること」である。

チームとクラブ、ゲームとカルチャー、それらは両者ともに影響を与え合っており、それぞれが分解された状態では本質的に「強いクラブ」も「クールなクラブ」も創ることはできない。それを私はこれまで"ブランディング"と呼んできたが、その言葉は適切ではないのかもしれない。ゲームとはブランディングの一部であり、ブランディングとはゲームの一部であるのだから。

さて、「強い」の定義も「クール」の定義も、あらゆる解釈ができる。

「強い」というのは「試合(ゲーム)に勝つこと」と直結するため、誰でも簡単に説明することも、あるいはより複雑に説明することもできるが、「クール」とは一体何だろうか。

私は、人が「かっこいい(クールだ)」と感じる時、以下のような三角形のバランスが取れている時、と書いていた。

そしてそれぞれは、設計(デザイン)されるべきである。

Off-Whiteの創設者ヴァージル・アブローの対話をまとめた『ダイアローグ』で、彼は素晴らしくシンプルで的確にそれを表現していた。

クールとは、深さである。

たしかに、私はどうやら「深さ」というものを、サッカーというものに求めているようである。

この「深さ」というものを得るために、どれだけの時間がかかるのかはわからないが、短期的につくりだすものではないことは確かである。

そう考えると、これからのスポーツは、より時間をかけて「クラブ」や「カルチャー」を創っていくべきであり、短絡的な思考や、短期で小さな結果を求めているようでは、「強いサッカー」や「クールなサッカー」を創出することはもとより、社会に何一つ価値を創り出すことなどできないのではないかと、私は強く思うようになった。

そしてその探求は、「ゲーム(オン・ピッチ)とカルチャー(オフ・ピッチ)」そして「チーム(オン・ピッチ)とクラブ(オフ・ピッチ)」を統合的に捉えることによって、はじめてスタートするのである。

長い時間軸の中で、いかにして分野を横断する「越境性」と、ヒエラルキー間を往来する「超越性」を身につけるべきか。私は設計者であるべきか、実装者であるべきか、あるいはその両面か。


ああ、何もかもが、始まったばかりである…


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