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母がイライラしながら言った、「お父さんはマイペースだから」。私は直ぐ「マイペースのどこが悪いの?マイペースは悪なの?」と聞いた。私から見ると、父には父の、母には母のペースがあるだけで、同じでないだけ。なのに、母は「マイペースは自分勝手よ!」と言った。母の苛立ちには「少しは私のペースも考えて、合わせてよ!」という意味が含まれているよう。

そんな父似の私はノンアルコール、ノンカフェイン、ベジタリアン、グルテンフリー食を好む。アレルギーが元になっているわけではないので、別にそれ以外が出ても食べることはできるが、自分の身体にとってベストな食生活を知っているから、好みをちゃんと告げる。私は文句を言うわけではなく、これは食べるけど、これは食べない、と事実をはっきり伝えるだけだ。すると、母にとっては出されたものや一般的に調理されたり、売っているものを黙って食べない私は「わがまま」らしい。

自分のペースや自分の好みを認識することは、「自分軸」発見には欠かせない。どんどん追求してもらいたい要素なのだけれど、母の理屈だと、マイペースや自分の好みを伝えることは、好ましくない態度に映るようだ。そんな母親に育てられた私も、昔は自分の好みをハッキリ言えない人だった。長く離れて暮らしていて、すっかり忘れていた。

日本でコーチングに「自分軸」という表現を使ったら、「自分勝手とどう違うんですか?」とか「(責任感を持たずに)自由優先、っていうことですか?」と質問された。私としては、どうしてそのような連想になるのか困惑した。でも、身近な母が、日本文化に深くある価値観を、私でも理解できるように教えてくれた気がした。

日本の文化に「自分軸」は原生しないのかもしれない。あったとしても、あまり良い印象を持たれないようだ。だから、その概念を発見・育成する工程に入る前に、まずは環境を整える必要があるようだ。種をちゃんと発芽させたいなら、土地を均さなくてはいけない。

その地ならしというのは、私たちの奥深くにある根付いた個人・集団の価値観に気づくこと。「自分軸」をもって、感情的、思考的に自立したいと思っても、それを邪魔する要素があるなら、それを客観視することに慣れることが必要だ。集団主義的文化の日本で「自分軸」を捉えるとき、その感覚を学んだ概念として理解できても、個人的感覚に落として自分のものとするには、ある程度の準備と繰り返し思い出し、学び、実践する練習がいるだろう。

私は日本生まれ、日本育ちだ。17年前、一人北欧に渡った。その前も、大学で3年米国、欧州に半年住んでいた経験があった。そのため、欧米文化での暮らしに困ることはなかったし、友達作りにも苦労はしなかった。けれど、欧米に身を置く度に、私は「何か」と格闘し、時に打ちのめされ落胆し、時に大きな勇気を得ていた。長いこと、この「何か」が具体的にわからず、ちゃんと効率的に向き合うことをしていなかった。だから、彼等と私の何が、合っていなくて、時に悶々として、打ちのめされたり、刺激されたりしていたのか。うまく表現できなくて、単純に欧米人や北欧人の個人主義は、気遣いのなさやの冷たさを私に感じさせると思っていた。

17年経ってみて思うのは、彼等が云々ではなくて、それは欧米人との交流を通して映し出される「私との対峙」だったとわかる。

自分軸について、ゆっくり続けます。


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