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赤い太陽

体は疲れているのに眠れない


やっと晴れ渡って久々に湖で泳いだのだ。
時折ひんやりする涼風が吹いていたが、水はやさしい温度であった。
あまりに心地よくてつい、いつもより遠くまで泳いだ。
遠くと言っても、岸沿いに浅瀬を行くだけ。
足がつかない深いところは私を不安にさせるから。

水中では薄い青緑色の世界が繰り広げられる。
ひとかきごとに一斉に揺れる湖底の藻。
縞模様を作ってきらめく太陽の光。
この水中の世界を見ていると、
いつまでもどこまでも泳いで行けそうだった。
時折小さいあぶくが上がるのは、
魚たちがどこかに隠れているのに違いない。

岸辺ではあちこちでカナダの国旗が風になびいている。
今日はあの旗まで行こう。

うちの湖畔の家にも大きなカナダの国旗が、箱に仕舞われて置いてあった。
でもそれよりももっと丁寧に折りたたまれているのは、アメリカの国旗である。夫は何十年もカナダに住んで、二重国籍が可能にも変わらず結局カナダ国籍を取ることはなかった。

ずっとアメリカ人だけでいたかったのかなあ。

そんなことを考えながらメイプルリーフの旗で折り返す。
すると見覚えのある人物が目の端に引っかかった。
デッキの上で木材をかついでいる。
ゴーグルを取ってみるとタイル屋のショーンであった。
うちの二階のバスルームのタイルを張りに来てくれた男性である。夫とひともめあって、ひどくいいかげんであったが、実は心根の優しい彼であった。
Water house を改築していると言って指さしたところには、まさに水の上に白いこじんまりとした家が建っていた。
私はうなずき、そして手を振って再び水中に戻った。しかし彼の事を思い出すと水の中で吹き出しそうになる。
なんせ、うちのタイル張りを始める前、一本もなかった彼の歯が、支払いを済ませて次に会ったときには綺麗に揃っていたのだから。目を丸くした私を察して、下はまだだけどねとショーンは言った。
この日も白い歯は変わらず健全であった。
下の歯も入ったのかなと思うと可笑しくて、思わずむせそうになりながら、それでも私は泳ぎ続ける。

夫はいつも大工仕事を終えると
汗を流すために湖に飛び込んだ
ふたりで魚になって泳いだ
私はいつももう少し泳いでいたいのに
夫はビールを飲むと言って
とっとと岸に上がって行ったっけ

ふいに30cmほどもある魚が、おなかの下を横切った。
パーチだろうか。白っぽく銀色に輝いて見えた。こんな大きさの魚をこの浅瀬で見かけるのは珍しい。数日続いた雨のせいで湖の水かさが増していた。

あの日
具合がひどく悪いのに夫は
泳ぎに行って来いと私を
湖に送り出した
窓から見ていてねと
手を振るからねと
梯子階段を下りた
泳ぎ始めても
もしかしたらこの瞬間
夫の息は絶えているかもしれない
呼んだのに誰も来ないと
ひとりで逝ってしまっているかもしれない
そんな風に思いながら泳いだ
泣きながら泳いだあの日


しかしそんな夏の日はもう遠くなって、今年も変わらず湖畔に夏はやってきて、私だけはいつもの夏のように魚になって泳いでいる。



遠くまで行ったせいで、ベッドに入っても体は水の中にいるように揺れていた。泳いだ後の疲れはなんとも心地いい。

それなのになぜか眠れない
色々な事が思い出されて
とりとめもなく
何の脈略もなく
あらゆることが次々と

今日デリバリーで来たチリのこと。
そういえば救急で行ったRVHのフードコートのチリがおいしかった。
あれはビーフだったかポークだったか?

銀行から連絡がないこと。
朝一番に電話して確かめよう。今度こそは絶対手続きを済ませなければ。

東京の教室のカリキュラムは土曜の分がまだできていない。プリントアウト用のワークシートを送ろう。

裏庭で育っているズッキーニ
It's huge(デカい!)
夫が言ったのか
湖の音か
静かな波のように
繰り返し耳に届く
風が出ているのだろうか

体は今にも眠りそうなのに、頭は覚醒している

睡眠が浅くなるからやめようと思いながらやめられない、枕元でのスマホyoutube。
仕方ないので今夜も開く。
15分ほどで終わっては次の動画をタップする。
広告をスキップしてまた枕元に置く。


はっと気づいたら、なんだかわけのわからない動画が流れていた。
微分積分の説明??
いったいなぜこれが始まっているのか。xを触って動画を閉じる。

何時だろう。
しかし時間を見るよりも先に、白い天井がワイン色に揺らめいているのに気づいた。
一体なんだろう。

少し間を置いてベッドから降りる

ひんやりした床
窓辺に寄る
するとすぐそこの湖面に
鮮やかなピンクの川
日の出だ
濃いピンク色の川をたどるとその先に
今まで見たことがないくらい
あかいあかいあかい太陽が
水平線をのぼりかけている
それは一瞬にして私を打ちのめすほどの赤さである

急いで階下に降りる
デジカメをつかみ外のデッキに立つ
こんなに赤い太陽があったとは
私は夢中でシャッターを切った
太陽はその間も一秒ごとに正円に近づき
そしてとうとう丸ごとの燃えるような赤色をこの世界に解き放った
それは涙が出るほどに
美しく
強く
それでいて清廉な赤であった

私はデジカメを置き
ただ茫然としてあかいあかいあかい太陽をみていた

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ところがいったいどうしたことだろう。

後で見ると、写真に残った太陽はちっとも赤くないのだ。
湖面も、この目に写ったのと同じピンク色に輝いているのに、太陽だけはその赤色を他人事のように捨てて、いつもの半透明の黄色い輝きだけを見せつけている。

夢だったのかもしれない
あの赤は私だけが見た
夢だったのかもしれない

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#眠れない夜に


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