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明治維新過渡期の水産業

 日本水産業の近代的発展の基盤は、江戸時代の封建制度のもとで培われました。旧幕府時代の水産業の主体は、ブリ・マグロ・イワシ・ニシン・サケを目的とする地曳網漁や、クジラ・イルカを目的とする刺し網漁でした。これらの漁業の担い手は沿海各地の裕福な百姓または漁業家などの、いわゆる網主とよばれる人々であり、網主たちは多数の漁民や百姓を使役して、大網(現代でいうところの水産会社)を経営しました。

 この形態は大小の差こそあれ、紀州・土佐その他の西国方面の捕鯨業においても同様で、網主たちは漁民や百姓を救済保護し、その間には主従関係が成立していました。この形態こそ旧幕府時代の半農・半漁制による代表的な漁業でした。網主がいる大漁場の例としては、九十九里浜のイワシ地曳網漁が挙げられます。

 しかし、特別な網主のいない漁村も存在していました。網主のいない例としては、伊豆国東海岸の浦方などが挙げられます。このような漁村は、網主がいないために飢饉などにも自力で対応するしかなく、その大半が餓死したとの記録さえあります。佐藤信季著『漁村維持法』によると、九十九里浜の豪農網主である惣兵衛は、譜代の家来関係の百姓や家抱えの漁夫など、60人余りを使役して漁業に従事していたというのです。

 ところが幕末期になると、潮流の変化などによる漁場の荒廃と、網主への富の集中と小漁民の窮乏化によって、これまで栄えていた代表的な大漁場が次々と没落していきました。これによって、漁村における大多数の中小漁民は、いわゆる“支配の海”の外である沖合はるかに出漁せざるを得なくなりました。

 こう見てくると、幕末期における漁業の実際上の活動は自国の支配の海や領海内に限られていたのではなく、特に中小漁民の進出分子は、他国の海に進出するとともに、そこに移住して新たな村を建設する場合もありました。そのため、他国との交通があらたに開発され、漁業物資はもとより、あらゆる生活文化の交流を開いた事例は決して稀ではありません。このことは、当時の封建政治的な社会文化を解体し、全国的な国民経済生活を形成するさきがけとなったものとして、かなりの意味を持っています。


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