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イングランドにおけるキリスト教の普及

 6世紀末、アングロ=サクソン人の諸国家がしだいに統合され、アングロ=サクソン七王国が出現してくるころ、ローマ教皇グレゴリウス一世は、ベネディクト修道士のアウグスティヌスをキリスト教布教のためにブリテン島へ派遣しました。七王国のひとつであるケント王エゼルベルフトに迎えられたアウグスティヌスは、同王を改宗させることに成功し、カンタベリにブリテン島最初の教会堂を建てることに成功しました。

 ここで特に注目すべきことは、当時の布教方法が、個々人に対してではなく、国の統治者である国王をまず改宗させることで、国内の人々をキリスト教化するというものであった点です。

 アウグスティヌス以後の修道士たちの活躍もあって、キリスト教はアングロ=サクソン人の世界にしだいに浸透していきました。しかし、ローマ=カトリック教会には、異教徒であるアングロ=サクソン人の改宗とならんで、その布教過程において解決すべき大きな課題がありました。それが、アウグスティヌスの布教以前に、北方からはいってきたケルト系キリスト教との宥和であり、またブリテン島において教会組織を確立することでした。

 アングロ=サクソン人の侵入で北西部に逃れたブリトン人のあいだで、ケルト系キリスト教が広く普及しており、とくに6世紀のスコット人の修道士コルンバヌスの活躍もあって、アイオナ修道院やリンディスファー修道院を中心とした布教活動が、北方から進められていました。

 ローマ系とケルト系のキリスト教の宥和は、両者の教会組織や教義をめぐる立場の違いから、非常に困難でした。ローマ教会は司教の管轄区を重視したのにたいし、ケルト系では司教のもとで教区はそれほど明確ではありませんでした。また、イエスの復活祭を決定する暦をめぐる相違をありました。とりわけノーサンブリアでは、ローマ系からケルト系への突発的な移行がみられたこともあって、両者が併存し対立する状態が生じていました。

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 ※アングロ=サクソン七王国

 こうしたなか、664年にウィビットで開かれた教会会議は、激しい議論の末、ブリテン島においてローマ系キリスト教を公認しました。その結果、イングランド教会はローマ=カトリックの世界へ、すなわちヨーロッパの本流へと組み入れられることになりました。

 また、教会会議ののち、司教区組織の整備が進みました。7世紀~8世紀にかけて司教座制度の拡充が進められ、南部にはカンタベリを中心に12の司教区が、そして北部にはヨークを中心に4つの司教区がおかれることになります。さらに、カンタベリ大司教テオドロスは、672年にハートフォードで、統一イングランド教会の第一回教会会議を開催し、いまだ達成されていないブリテン島の政治的統一のモデルとして、教会統一を示しました。

 このようなローマ系の聖職者たちによる活動が、イングランドの文化や宗教の性格を決定づけていきました。ローマ系キリスト教への改宗は、ブリテン島の政治的統一を促進しただけでなく、イングランドをゲルマン人的な異教社会から、大陸のローマ的ラテン文化圏へと組み込んでいったのです。

 やがてイングランドは西欧におけるキリスト教信仰の一つの中心地となり、「ドイツ人の使徒」の名で知られるボニファティウスのように大陸への布教活動をおこなう者もでてきました。また、ローマ系キリスト教の普及はブリテン島におけるラテン語の知識・使用を促進し、法典の編纂や各種の作品を生み出すことになります。そして、キリスト教の布教やアングロ=サクソン世界についての最良の史料を提供してくれる「アングル人の教会史」の著者ベーダや、フランク王国のカール大帝の宮廷で活躍したアルクィンなどがあらわれたのです。

 

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