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メディア・アートと脱臼

メディアアートとは一体何なのか。
名前のわかりにくさと、(作品にもよるけど)ぱっと見のわかりにくさで、「難解なもの」と思われていることが多い気がする。
そもそも、ここで言うメディアってなんだ。
いくつか、好きな作品を、メディアアートに限らず、あげてみる。

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credit: http://www.oldenburgvanbruggen.com/

クレス=オルデンバーグ — ソフト・スカルプチュア
柔らかい素材で日常のものを巨大に彫刻した作品たちhttp://www.oldenburgvanbruggen.com/

目《景体》

[mé] 《景体》
展示風景:「六本木クロッシング2019展:つないでみる」森美術館(東京) 撮影:木奥惠三 
波の一瞬を切り取った塑像作品。実際には捉えることができない、波のディテールを、時を止めたように凝視することができる。
http://mouthplustwo.me/index.html

イン・ア・ゲームスケープ — ヴィデオ・ゲームの風景,リアリティ,物語,自我

『SuperMario Sleeping』- マリオが寝ている様子を見るだけの作品
『マイエクササイズ』- 「いがぐり坊主」が腹筋運動をし,秋田犬にバフっとめりこむ
『EVERYTHING』 — 極小から極大まで画面に移るものすべてに憑依していく,「万物シミュレーター」
※上記ICCサイトに詳細があるのでぜひ。

どれも、「日常的な感覚の脱臼」をさせてくれるところが楽しい。
要素を分解してみると

・オルタナティブな世界観を/現状のマジョリティに対する懐疑性を持ちながら
・人が自発的に発見できる形式で
・表現/具体化したもの

といったところだろうか。

ではメディアアートは、というと、こないだ読んだ『メディアアート原論』で書かれていたことを解釈すると、

言語や絵画に変わる新しいメディアとして、インターネット/ソフトウェアなどインタラクティブ性や実行性のあるメディアを用いており、新しい思考回路と表現方法を与えるもの

というのが重要な要素になるらしい。


本の中で印象的だったところを備忘録的に抜粋してみます。

マクルーハンは「テクノロジーとは人間の感覚器官を外化したものである」という言い方をしています。例えば、自分の思考を外化する方法として、コンピュータ以前は手で言葉を書いていましたが、コンピュータを使うとさらに、自分がどうやって書いているかも外化される。
自分が美しいと思っているものが、いったいどういうことなのかを外化することを通して理解する。
インターフェイスという概念によって、カメラや楽器のような既存の道具の見え方が変わったように、プログラムの実行という概念が顕在化することで、「自然物も計算している」という自然計算の概念が生まれました。
芸術を「言語以外のメディアで行う哲学」と仮定すれば、哲学の限界は、自然言語で考えたり記述することにあります。それだけで、人間中心主義を脱することができない。そこに哲学者のひとつの限界があるのです。芸術はまず、そこを色や形、動きのような視覚言語、音響言語で拡張しましたが、さらに数学のような形式言語、コードのような実行言語で思想や美学、哲学を考え記述することが、今考えたいことに対するドライビングフォースになる。

出典:『メディアアート原論』(久保田晃弘, 畠中実)

ソフトウェアの時代になり、コードが身の回りにあふれるようになった。そこで人間は”実行(=書かれたものを遂行する)”という考えを手に入れた。
言葉、音楽、絵、などいろんなメディアを人間は使うけど、新しく”コード&実行”というメディアを手に入れた人間は、これまでと違ったことも考えられる、かもしれない。
そう思うと、なにか楽しげなものに聞こえてくるような気も、しなくもない。

Top Photo : 毎年メディアアートフェスティバルが開かれるArs Electronica. Photo by Christian Holzinger on Unsplash

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