見出し画像

ごまめのごたく:茨木からアジアへ


まえがき

前回の「千里丘陵から茨木へ」の続きです。
 資料をあさっていると、たいがいテーマや地域ごとに歴史が語られるので、私のような歴史に疎いものには、難解な映画を読み解くのと同じで、時系列が行ったり来たりして、因果関係が分からなくなります。
本稿では、できる限りあちこちで起こるいろんな事件を、時系列で組み立てるよう努力してみました。
ごまめのつぶやき:時の流れの積層に、地域の歴史が重層し、離れ離れの異文化が時を超えて重奏する

朝鮮、中国に対する対応 

関連地図

 さて、日本は、日露戦争後の1905年(明治38年)に朝鮮を実質的な植民地としました。
 朝鮮では台湾中国本土と異なり、中国国境地帯を除き、アヘンの吸食習慣は広まっていませんでした。
 1910年8月29日「日韓併合に関する条約」が公布施行されます。
韓国を併合した日本は、アヘンを吸う習慣を持たない朝鮮に大々的にケシを栽培させます。

 20世紀に入ると、中国でのアヘン禍は中国内部での運動とも相まって国際問題化し、1909年(明治42年)、上海で最初の国際アヘン会議が開催されました。
 1911年(明治44年)、中国では辛亥革命が起こって清が倒れ、中華民国が成立しましたが、実態は、各地に軍閥が並び立つ分裂国家でした。
日本はこの分裂を利用して中国での利権を手に入れ、経済的な侵略を進めようとします。中国各地の軍閥は、兵器調達のなどために、ケシの栽培を奨励したり、密輸したりしました。 
 1912年(大正元年)にハーグ国際アヘン条約が調印されましたが、イギリスの抵抗で、アヘン煙膏の輸出入を禁止・制限しただけで、原料となる生アヘンの生産・輸出は禁じていませんでした。

第一次世界大戦とケシ栽培の拡大

 1914年7月、第一次世界大戦がサラエボ事件をきっかけに勃発します。ドイツ軍は対フランス侵攻計画に基づいて、ベルギーに侵入、フランスと英仏協商を結んでいたイギリスは、ドイツに対して宣戦布告します。この段階ではヨーロッパが主戦場です。
 日本は、当初中立を宣言しましたが、外務大臣の加藤高明は日英同盟を結んでいたイギリスとの関係性などから、参戦を強く主張し、結局、同年8月、日本はドイツに宣戦布告し、ドイツが租借していた青島(チンタオ)を占領し、軍政下に置きます。
そして関東州と同じようにアヘン専売制をしき、利益は軍政所7割、事業委託者3割としました。青島では、「アヘンは輸入禁製品であるが、日本政府の許可証さえあれば、そのまま税関を通過し、日本の売薬店でアヘンを売っていないところはない」という状況になります。

 台湾では、アヘン以外の精糖などの日本企業が大きな収入を上げるようになり、地粗収入や他の専売収入が急速に増えアヘン収入の歳入全体の中に占める割合は徐々に減少しました。そして、アヘン中毒者の総数自体は減少傾向にありましたが、新たな吸食者の許可、アヘン煙膏の値上げなどで、収入自体は減りませんでした。
 第一次大戦中、関東州・青島・マカオは、ヨーロッパからのアヘン供給が減ったので、台湾で遊んでいるアヘン煙膏製造設備を稼働させてアヘン煙膏を輸出することにしました。また、製造のコスパを上げるため、人気のあったインド産アヘンに変えて、モルヒネ含有量が高くて安いトルコ産アヘンを輸入し、モルヒネを抽出して医薬品などに使用し、残りの低モルヒネ阿片に香料などの添加物を加えてアヘン煙膏を生産することにしました。
 ことは秘密らに計られ、1915年(大正4年)から、二反長音蔵と親交のあった星製薬(星新一のお父さんが創業者です)が、製造を独占的に請け負いました。

 第一次世界大戦中は、アヘン、モルヒネが不足したので、経済的利益を求めて朝鮮でもケシ密栽培者が出てきます。

 日本を取り巻くこのような状況の中で、音蔵は身銭を切ってまでケシの品種改良や栽培の実地指導を行い、自分の山林や田畑まで売ってしまいました。音蔵が改良した品種で代表的なものは「福井種」と「三島種」でした。
福井種は台湾産のものを改良したもの、三島種は中東産のものの改良品種ですが、モルヒネ含有量の高い三島種が主流になっていきます。

 ケシ栽培、アヘン製造の講習会が、内務省によって1915年の第一回から毎年行われます。講義の場所はいろいろでしたが、実地講習はいつも音蔵の村(福井村)の畑で行われました。
 受講生は、北は樺太から、南は台湾からも集まり、ケシ栽培は茨木から和歌山へと広がっていきます。

阿片禁止の動きと日本の対応

 1917年(大正6年)、イギリスは表向きはインド産アヘンの輸出を禁止しました。
 中華民国政府自身も、同年3月末をもってアヘンの輸入を禁止し、同年末、アヘン禁煙令を発布します。

 しかし台湾では同年、アヘン煙膏の製造が大日本製薬など3社に認められました。三井物産は、台湾への原料アヘン輸入で利益を上げていました。

 1919年(大正8年)、朝鮮総督府は朝鮮アヘン取り締まり令を出します。しかし、認可したものにはケシ栽培を認めて、採取阿片をすべて総督府に納入させ、その阿片を台湾などに売りさばくことにしました。
1920年に、音蔵は朝鮮でケシ栽培の講習会を行っています。

 1922年(大正11年)に、山東半島が中国に還付された後も、青島は日本のアヘン及び麻薬の密売の一大拠点のままでした。
 1923年ごろの華北の状況は「天津は5000人の7割が薬種商、料理屋、雑貨屋であり、ことごとくモルヒネを扱っていた」といわれ、日本の官憲は目に余るもののみを検挙していました。徹底的に取り締まると、中国から日本の民間人がいなくなってしまうからです。
 このころ、大阪の道修町の製薬会社が、中国の熱河省のアヘンを使用してヘロインの現地生産を始めました。
 一方、華中の上海には台湾総督府の作ったアヘンが密売されていました。

 1920年代になると、台湾民衆党・医師が中心となった、アヘン反対運動が起きます。
 1925年(大正14年)、ジュネーブ第一・第二アヘン条約が締結され、生アヘンやアヘン煙膏の輸入・分配を政府の独占事業とし中毒患者以外の使用を禁止しました。
 1928年(昭和3年)、ジュネーブ国際アヘン会議が開催されます。
日本への非難が集中することが予想され、総督府はこの会議に間に合うように煙館を閉鎖し、アヘン中毒者の治療施設も開設します。
 1930年代に入ると、アヘン患者は急速に減少し、1930年代後半には、台湾は農業植民地から工業植民地へと脱皮を遂げます。

 このころ、中国民衆の内部から、列強侵略に抗するため中国統一を望む声が強まり、1926年蒋介石率いる中国国民党の北伐が始まって、1928年中国統一を成し遂げます。

 この間、朝鮮ではアヘン吸食は厳罰とされていましたが、簡単に注射などで接種できるモルヒネは野放しで、下層社会にモルヒネが広がります
また、モルヒネから作られるヘロイン生産の中心地となっていきます
ヘロインはモルヒネから作られますが、モルヒネと違って医療用には使えず、麻薬としてしか使用できません。

  1931年(昭和6年)関東軍は満州事変を起こし、中国東北地方の各地を占領し、1932年3月、清朝の廃帝、愛新覚羅溥儀を執政として「満州国」樹立を宣言します。
 満州では急速にアヘン窟が増え、1937年(昭和12年)、ハルビンでのヘロイン窟は3000以上になりましす。そして、満州国でのアヘン専売利益は、1939年(昭和14年)度には、歳入額の5.6%と、大きな部分を占めるようになります。

朝鮮、「満州」などでの栽培指導

 1930年になると、朝鮮でのケシ栽培の作付け面積は日本の内地の2倍にもなります。
 音蔵は朝鮮に渡り、ケシ栽培に適した土地を探し、播種から栽培まで指導しました。さらに、1934年、38年、43年と三度、音蔵は「満州国」に招かれて、ケシ栽培の指導に満州に渡っています。この最初の旅で、音蔵は安東に三日間滞在して、上下の別なくアヘン吸飲場を巡視し、「その陶酔境を忘れかね、幸福な夢を追っているのは、私は何か慄然たるものを感じたほどで、そこには世紀末的なものが流れている」と吐露しています。
 その後も音蔵は、満州・熱河省や内モンゴルにも出かけて、老齢にもかかわらず精力的に活躍します。
 熱河省は従来から中国での代表的なアヘンの産地でしたが、日本は1933年熱河省を占領し、ケシ栽培、アヘン製造の拡大を狙いました。

 しかし、中国では国民政府禁煙委員会を発足させ、1928年(昭和3年)から3年以内にアヘンや類似薬品を禁絶する計画を発表、世界各国に協力を求めました。
 1931年(昭和6年)、麻薬製造制限分配取り締まり条約が成立し、ヘロインにも厳重な制限が加えられました。
このいずれの条約も日本は調印・批准しました。
 こうして、インドのケシ栽培も激減し、中国では禁煙計画の徹底により急速にアヘン中毒患者を減らしていました。
特に、国民政府の首都であった南京では、1937年(昭和12年)日本が占領する前には、アヘンが一掃されていたといいます。

 二反長音蔵は、1937年には、「一貫種」というケシの新種を作っています。従来、一段(たん)の畑から約450匁(もんめ)のアヘン汁が採取されていたのが、この品種により、倍以上の一貫(かん)採取でるようになったのです。

1937年(昭和12年)盧溝橋事件が起こり、日中戦争に突入します。東条英機率いる関東軍は内モンゴルに侵攻し、この地域を中国最大のアヘン生産地としていきます。
 音蔵は、1943年(昭和18年)この内モンゴルに、ケシ栽培指導に行っています。

当時の新聞記事より

『 阿片類の薬品は輸入厳禁となり国内医療用の需給対策としてケシの本場三島郡では厚生省の唱道によりよって栽培上の確固たる指導方針、ケシの買収価格問題などの実情を明瞭にして大増産計画をたてたいと郡農会では九月五日午前八時から茨木中学校で各町村長、農会長を招き厚生省、府農務課などの関係官も列席して「ケシ増産協議会」を開き、阿片需給対策を確立して農家副収入の増加をはかることになった。』

本稿はここまで。

おまけのつぶやき:戦後も使われ続ける阿片

 冷戦がはじまると、東南アジアでアメリカがアヘンを利用し、土地のボスや軍閥の勢力を維持させるために、彼らのアヘン取引を黙認しました。そして、タイ・ラオス・ビルマの国境地帯のゴールデントライアングルと呼ばれる地域のケシ栽培がさらに盛んになります。
 第一次インドシナ戦争ではフランスはアヘンを反ベトミン勢力育成資金とし、ベトナム戦争時には南ベトナム政府の要人はヘロインを扱い、権力の基盤としました。彼らのヘロインが精神的に苦しむアメリカ軍兵士に広がっていき、ベトナム帰還兵によりアメリカ国内にも麻薬が広がっていきます。

 ブルースリーを一躍有名にした1973年公開のハリウッド映画「燃えよドラゴン」では、ハンのアジトの地下にあるアヘン工場にリーが潜入して、人身売買か死を待つだけのアヘン中毒者の牢獄を開放します。
 この年、10年以上続いていていたベトナム戦争がパリ和平協定により一応一段落しました。