今を全力で生きること ~人生が変わった22歳の夏~

22歳の夏、僕は街病院からの紹介状を片手に大学病院へ向かっていた。

慣れない東京でのサラリーマン生活の疲労が、ピークを迎えていた7月中旬。

社会人1年目の新米サラリーマンにとって、何気ない休日になるはずだったこの日、雲ひとつない青空の下、僕の人生を大きく変える出来事が起きた。

大学病院に到着後、僕は数え切れないほどの検査を受けた。

検査中、街病院の先生が「すぐに大学病院で検査しなさい!」と言った顔が、脳裏をよぎる。

はじめは「この先生大袈裟だな…」と思っていた自分も、検査の量に事の重大さを感じた。急に、不安や焦りの感情が湧き出てくる。

「この先どうなってしまうのだろう…」

そんな不安を抱えながら、全ての検査が終わった僕は、検査結果を1人で待つ。

不安、恐怖、脅威、怖気、憂懼、心配、恐れ、、、

このような感情が、次々と僕の心と身体を支配していく。

その感情を整理する暇も無く、名前を呼び出された診察室の扉を開けた。

ゆっくりとした口調で、医者は僕に告げた。

「精巣腫瘍。悪性の癌です。」

精巣腫瘍。

それが、医者から僕に告げられた恐怖の正体。

当時22歳、社会人1年目の夏。僕は癌を患った。

「実家の親と、会社の上司に連絡をする為…」と言って病院の外へ出た。

雲ひとつない青空の下、僕はとにかく空を見上げた。

自分の身に起きたことへの恐怖に負けそうで、青空を見ることだけしか、当時の僕には自分を奮立たせる術は無かった。

2012年、7月中旬。ある1人のサラリーマンに降りかかった、休日の出来事。

しかし、この夏を境に僕の人生は大きく転換する。

「発見が遅ければ明日死んでいたかもしれない」と、医者が放った言葉が頭から離れない。

その言葉を聞いて、1番最初に浮かんだことは、大学卒業と同時に辞めたはずのサッカーだった。

病院のベッドの上で、小さな頃からの夢を諦めた自分に対して、後悔している自分が居ることに、その時初めて気付いた。

でも、命がある限り、人生はやり直せる。

「もう一度ピッチに立つ。そして、絶対にプロサッカー選手になる!」

22歳のサラリーマンは、ベッドの上で1人決意した。

”自分の人生に1つも後悔を残さない!”と。

幸い早期発見だったので、摘出手術と放射線治療を行い、一命を取り留めた。俗に言う、ステージ1というやつ。そういう点では、本当に運が良かった。

しかし、放射線治療では副作用が出て吐き気が止まらず、ご飯が喉を通らなかった。現在60キロ以上ある体重は、当時は50キロまで落ちた。とてもサッカーができる身体ではない。

それに、大学時代に負傷した右膝は曲がらないままだ。大学4年生の最後に負った全治1年の怪我のリハビリは、目標が無かったので途中で辞めていた。

それでも、退院直後に僕は走り出した。夢だったプロサッカー選手になると決めた以上、1ミリでも日々前進しなければ、その夢に到達しないことは自分自身が一番理解していた。

はじめは100メートルの距離をジョギングしただけで、息切れがした。大学時代は長距離走で誰にも負けなかったのに。Jリーグチームとの練習試合でも、走力の部分だけは勝負できた自負があった。しかし、自分の1番の武器だったはずのものすら、当時の僕には無かった。

また、生きていくには現実的にお金も必要だったので、術後三ヵ月後に会社へ復職。プロサッカー選手になるには、リハビリやトレーニングが必要だったが、現実は毎日夜遅くまで仕事に追われる日々だった。焦る気持ちとは裏腹に、当時の僕は住宅リフォームの営業をするしかなかった。

それでも、僕は公言した。

「もう一度サッカーをやるよ。プロサッカー選手になるよ。」と。

もちろん、沢山の人に止められた。

きっと、僕の当時の状況を見たら、止めない方がおかしい。体重は50キロしかないガリガリで、膝は曲がらないし、癌の摘出手術を受けたばかり、術後経過治療中の22歳。

そんな男が、「プロサッカー選手になりたい!」と突然言い出したら、僕だって止める。それが世間一般で言うところの”普通”だ。でも、大津一貴本人だけは常識から外れていた。

休日は膝のリハビリ、少しでも早く仕事が終わった時には近所の川沿いで走り込み。朝に余裕がある時にも走り込み。少しずつ膝の状態が良くなってきてからは、多摩川の高架下で1人でサッカーボールを蹴り込んだ。コンクリートの壁に向かって、ボールの感覚を取り戻す作業を何度も繰り返した。応援してくれる人は居ないし、トレーナーや練習相手も居ない。物凄く孤独だったが、とにかくやるしかなかった。

しかし、その熱意が通じたのか、僕の夢を応援してくれる第一号が現れた。癌が見つかった当時、会社の直属の上司だった方だ。僕のことを再び同じ部署に移動させてくれて、少しでもサッカーに取り組みやすい環境作りを手伝ってくれた。

更に僕の熱意が引き寄せた。移動した部署の営業エリアで、運良くお客様から、東京都リーグの社会人チームを紹介してもらった。そのチームで本格的にサッカーに復帰。はじめは全然思い通りに身体が動かなかったが、ピッチの上でボールを追う週末が戻ってきたことだけでも、本当に嬉しかった。

そのチームには1年半お世話になった。コンディションも少しずつ戻ってきた時に、プロサッカー選手になるために具体的な方法を探った。当時は上から数えると日本の8部リーグでプレーしていたことになる。そんな自分では、きっと日本国内でノーチャンス。視線は自然と海外へ向いた。根拠は無いけど、きっと海外なら自分にもチャンスがあるはずだ、と。

ネットで海外リーグへの斡旋会社等を調べたりしていると、日本国内で海外リーグ向けのセレクションがあることを知った。そのセレクションを受けない理由は無い。2014年の年末、僕は会社の忘年会翌日に都内で行われたセレクションへ向かった。会社の人たちには内緒で受けた。忘年会なのにお酒を控えていたのは、このセレクションを全力でプレーする為だとは、誰も知る由も無い。セレクションでは良いプレーができた感覚があり、自分でも手応えがあった。その手応え通り、僕は裏への抜け出しなどのプレーを評価してもらい、モンゴル1部のFCウランバートル入団の切符を手に入れた。

2015年3月に働いていた会社を退社。それと同時に、僕は極寒のモンゴルへ向かった。マイナス20℃という気温の中での練習は、慣れない海外生活の厳しさを実感。また、開幕前の中国遠征ではプロサッカー選手としての厳しさを嫌なほど味わった。当たり前だが、練習から全力で臨まなければピッチの上には立てない。ましてや、海外で外国人という立場でプレーするからには、チームと個人両方の結果が求められる。開幕前から、プロの世界の厳しさ知り、その厳しさに負けじと必死に日々の練習をこなした。そんな異国の地での経験をも経て、僕はようやく開幕戦のピッチに辿り着いた。

試合前の整列時、癌と告げられた日と同じ雲ひとつない青空を見上げると、自然と涙が溢れ出た。

「やっとここまでたどりついた…」

そう心の中でつぶやきながら見た青空は、死ぬまで忘れることは無いだろう。

僕はモンゴルの地で、ついにプロサッカー選手という夢を叶えた。

癌を患い、自分の夢を描き直し、脱サラして、25歳にして夢を叶えた。

そして、開幕戦ではプロ初ゴールとなる先制ゴールを決めて、試合に勝った。

その後、ニュージーランド、タイ、2018シーズンは再びモンゴルと、世界を転々とするサッカー選手になった。

癌という出来事が僕にとっては大きなきっかけとなり、現在はサッカー生活を含めて、自分の人生を思う存分楽しんでいる。

その軸となっているのは、”自分の人生に1つも後悔を残さない!”という考え。

病院のベッドの上で決意した想いを胸に、今も僕は生きている。

そして、これからも僕の人生は、その想いを軸に進んでいくだろう。

死ぬ時に、「もう人生でやりたいことは全部やったからオレ死ぬわ!」と言うのが、僕の理想の死に方。

その人生を実現するために、”今を全力で生きること”をモットーに、これからも人生を歩もうと思う次第だ。

●プロフィール

大津一貴(オオツ カズタカ)

1989年 10月 25日 北海道旭川市出身(その後すぐに札幌市)

札幌市立山の手小学校(山の手サッカー少年団) → 札幌市立琴似中学校(SSS札幌サッカースクール) → 青森山田高校 サッカー部 → 関東学院大学 サッカー部 → 2012 ホームテック株式会社入社(一般サラリーマン、サッカー引退) → 2013-2014 T.F.S.C(東京都リーグ、サッカー再開) → 2015 FC Ulaanbaatar(モンゴル) → 2016 Three Kings United(ニュージーランド) → 2017 Kamphaengphet FC(タイ) → 2018 FC Ulaanbaatar(モンゴル)

オフィシャルブログ【Special One】

記事連載【北のサッカーアンビシャス】大津流エンジョイフットボールライフ

Twitterアカウント(@kazuuu02)

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