見出し画像

「自分の命は、自分だけのものじゃない。」


薄い膜に包まれた筋肉が重なり合っているのを
一つ一つ丁寧に取り外してゆきます。

これは、先週の日曜日に罠に掛かったメス鹿の後ろ脚です。

止め刺しをした後、内臓を取り出している時に普段はお目にかかれない、
ある臓器の存在に気づいたんです。

何だかわかりますか?

大きさは丁度ボクの両手のひらくらい。

取り上げた時、指先からそのものの形状がハッキリと伝わって来た瞬間に、

思わず2度手を合わせてしまいました。

そうです、ボクは同時に2つの命を奪ったんですね。

右側の乳白色の袋は、お乳でしょうね。

その後の解体作業においても、己の命だけじゃなく次の命の為にも必死でエサを蓄えようとしていたことが、脂ののり具合から伝わってきました。

「有り難くいただく。」

「好き嫌い言わず、残さず食べる。」

その程度の解釈では生ぬるいな〜〜と、背筋がピン!と伸びましたね。

ボクらの命を維持する為に捧げくれた命に報いる為にも、

「今日も精一杯命を輝かさないと!」と自分に言い聞かせましたよ。

食事を摂ると言うことは、命をいただくと言うことですから。

不登校、引きこもりを経験した高校生向けのプログラムとして、いなか塾はスタートしましたが、

本当はね、ボクの本心はね、

「いつまで、ウジウジメソメソしてるんだ!」と言いたいんですよ。

でも、いきなりそれを言ってしまったら身も蓋もない。

だって、ボクのところに来る若者たちのほとんどは、自信をなくした状態で来るんです。

バッテリーの残量がほぼゼロに近いんだから、ともかく心の充電をさせてあげないと何も始まらない。

「ここは安心して過ごせる場所」であることを、まずは理解してもらう。

そこは、気をつけて声かけをしていましたね。

不登校、引きこもりになってしまった理由は様々です。

いじめ、家庭不和、自身の特性や持病、、、などなど十人十色です。

こちらからは些細なことのように思えても、本人にとっては“これで人生が終わってしまった!”と感じるくらいとても深刻な問題なのもよくよく理解できます。

ボク自身も18歳で実家を飛び出しましたし、我が子がイジメを受け
それが原因で通っていた高校を転校させた、親としても辛い経験もしましたしね。

でもね、それでも最後の最後は顔を上げて前を向いて歩いていかないと行けないんですよ。

だから、

「いつまで、ウジウジメソメソしてるんだ!」ではなく、

それに代わるボクなりのメッセージを届けるために、いなか塾の中で“命の授業”を組み込むことにしたのです。

命の授業では、鹿や猪の解体、鶏の屠殺を生徒たちにもやってもらいます。

顔を背ける子、途中で泣き出す子もいましたけれど、ほとんどの生徒は最後まで目の前の命としっかり向き合ってくれました。

自分の命はいろんな命の犠牲の上に成り立っている。

だから、自分の命は自分一人のモノじゃない!

「捧げてくれた命に報いるためにも、顔をあげて前を向いて歩き出してほしい。」

全てが整い過ぎてしまい有り難みが薄れがちな現代だからこそ、命を大切にすると言う根本的な原点を見つめ直さないといけないと思うのです。

くくりわなを仕掛けた3日目の朝でした。
見回りに来ると木の袂でメス鹿が横たわっていました。

※タイトル画像の人物と内容は関係ありません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?