音楽を好きであるのとサッカーを好きであることはそう変わらない、というお話

ゼロファジさんのこういうnoteを読みまして。

ああ、そうだよなあ、と思いまして。ゼロファジさんはマンガに喩えられましたが、俺なら「マンガ」の部分を「音楽」に置き換えたりします。
ロックでもポップスでもジャズでもクラシックでも和楽でも民謡でも何でも良いのですが、好きになるきっかけはそれこそ人それぞれ。無数にあると思います。
そして、どの段階からでもその音楽を奏でる人(若しくは人々)の紡ぐストーリーに参加することができます。人ならばその人が生きていようと亡くなろうと、グループ/バンド/ユニットならば、それらが存在していようといなかろうと。
どのタイミングで好きになろうとも、一度ファンになったなら、それは等しく「ファン」なのです

俺の愛好する、例えばローリング・ストーンズとガイナーレ鳥取を例にしてお話ししてみましょう。

俺の場合はこう

俺はローリング・ストーンズを愛好しています。でも、ブライアン・ジョーンズがいた頃をリアルタイムでは知らないし、ミック・テイラーがいた頃もリアルタイムでは知りません。
ライヴ経験だってコアなファンに比べればほぼありませんし、CDはたくさん持ってますが、だからってマニアックなコレクターの皆さんには遠く及びません。
にもかかわらず、どの時代のストーンズも俺なりに好きですし、そのことに文句は何も言わせません。ストーンズのオールドファンや原理主義的なファンに、「俺の愛で方はなってない!」などと文句を言われる筋合いはありません
俺はストーンズ、というよりキース・リチャーズなどが愛好するような古いブルーズも聴きますが、その一方でモダンポップなども聴きますし、ヒップホップやレゲエなども頻度はともかく聴いたりします。「そうした感性でローリング・ストーンズの音楽を愛好して何が悪いの?」と。思うわけです。

他方、サッカーではガイナーレ鳥取を主に応援したりしていますが、その愛し方だって、他の皆さんとは少々違っているかもしれません。
ことに今は身体的な事情もあり、ゴール裏で飛び跳ねたり声を出したりなどというような応援行為はできかねます。参加したい心情はありますが、周囲の皆さんに御迷惑になってもいけないので、そこは自重しています。
なのでその代わりというのも変ですが、写真を撮ったりブログを書いたりTwitterやFacebook、Instagramだとか、果てはこのようなnoteに投稿したりとか、あるいは会場に行くとグッズを買ってみたりとか、スタジアムグルメを味わったりとか、そういうこともします。
そういう愛し方で良いじゃねえか、というわけです。文句なんか絶対に言わせません他の人の愛し方にも文句を言うつもりは毛頭ありませんが、他の人からも同じように文句など言わせません言わせてなるものかってなもんですよ。

そりゃあ、ガイナーレ鳥取というチームは好きですが、だからと言ってチームに盲従してるわけではないので、場合によっては厳しいことも言ったりしますけど、それらの全てが正しいなどとは思ってません。
そんなもん、当たり前じゃないですか。俺ら、ド素人ですよ。運営する側はプロなんだから、プロはプロなりに考慮して判断を下すに決まってますよその判断が、素人目に見て疑問に思ったら、その疑問を提示してみる、程度のことですよ。
昔はもっと違うイメージであれこれ言ってましたが、最近はそういうイメージになりました。

チームにはチームとしてのポリシー、考え方もあるでしょう。中には容易に理解できないことだってあるかもしれない。でも、理解できないことのみを根拠に「俺には理解できないから支持しない」でもよろしくないと思うのです。一歩引いて冷静に考えてみることです。見聞きした印象だけであれこれ言うのも悪くないのですが、少し時間をおいて考えてみるのが最もベストなのかもしれませんね。

まあ、そんな感じで前身のSC鳥取時代からかれこれ16年ぐらいのつきあいになりました。その間にいろいろ、意識は変化していったと思いますが、今はもうそんなにチームをせっつくというより、「チームにとってのベストな形って何だろう?」とあれこれ夢想してみる的な感じでいます。無論、これだって俺の思ったようには必ずしもならないのですが、それもそれとして現実なのだと思うようにしています。

こないだのレオナルドの放出だってそうですよ。ガイナーレ鳥取というチームに結果として利を生むことならば、それはそれで受け入れましょうってだけの話ですよ。
それを「レオナルドの放出」という単一の事象だけ捉えてあれこれ言うのは確かに簡単なことかもしれません。俺も若い頃だったらそうしていたかもしれませんし。
だけど、俺も歳をとってあれこれと考えるようになってくると、運営会社としては最終的に利を生みたいのだから、そのためにどうすれば良いのかを考えた末のことなのだろう、と納得するわけです。
年嵩を増すことでそういう境地に達することができた、というのも良いのか悪いのかよくわかりませんが、そういうことみたいです。

ファンはファン

そんなもの、当たり前の話ですよね。ファンはどこまで行ってもファンですよ。オタだのマニアだの言ったところで「何だかんだ言っても君らファンでしょ?」で終わりです。

対象となるものが紡ぐストーリーにフリーライドすることはできるかもしれないし、幾ばくかの投資をして向き合うことだって当然あり得ますよ。

でも、俺たちは関わり方が如何様であれ、その対象にとってみればファン以外の何物でもないのですよ。対象に対してはそれ以上の影響力は持ち得ないのです。
ただ、その対象をこれから好きになろうって人が出てきた時、「じゃあこういう楽しみ方はどう?」「こういうのもあるよ」などというガイドラインになることはできるわけでしょう。その際も決して押しつけがましくせず、あくまでもその人の自主性に任せるんですよ。
だって、当然ですよね。前述した通り、人には人それぞれの愛し方ってものがあるわけですよ。自分と同じ愛し方をするわけじゃない。もしもその愛し方が、法律・条例・その場での観戦規程などに則っているものならば、それらを認めることは大事です
決して、他者の愛し方を否定してはいけません。合法的なもので周囲への迷惑行為にならないものならなおのことです。

ガイナーレ鳥取の場合、「俺はゴール裏で声を出して飛び跳ねて応援行為をいっぱいしているのだから、他の連中より優れている」とか「俺はツートッププロジェクトや野人総選挙、その他グッズなんかに多額の投資をしているのだから、他の連中より優れている」とか、「ああ、そうですか」ってなもんですよ。

ローリング・ストーンズの場合でも同じで、「俺は〇年のどこそこのライヴを経験してきたから、他の連中より優れている」だの「俺は××というアナログレコードの初版を持っているから、他の連中より優れている」だの言われても、「それがどうしました?」としか言えないわけです。

そういう「優位性」を根拠にマウントの取り合いをしたところで、ファンとしての価値に些かの変動が生じるわけでもありません。むしろ、ハッキリ申し上げて、そんなマウントの取り合いは無意味です
最近よく初心者のファンを「にわか」みたいな言い方をするじゃないですか。気持ちはわからないでもありませんが、やがてはコアファンになり得る初心者までも十把一絡げにして「にわか」呼ばわりしてはいないか、という気がします。
その対象が流行っている時期に、時宜に乗り遅れないために表層的に熱狂したふりをしている人々を、その先の一歩進んだファンになり得る人々に導いていくことが現状のファンの役目とは言えないでしょうか

ファンがファンを遠ざけるような真似をしちゃいけませんですよ。同じファンなのですから。垣根は作っちゃいけません。作るにしてもなるべく低く。ルールや秩序を守れるならば、どういう在り方も認め合える、そういう存在でありたいですよね。
少なくとも今の自分はそうありたいものです。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。