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忘れる、ということをできるだけポジティブに考えてみた

人間は忘れる生き物だ。それはわざわざ言われなくてもわかっているひとは多い。それなのに忘れることに関して誰かを責めるような文化があるのはなぜなのだろう。

察するに、これはパートナーに約束をすっぽかされたとか、古い友人に名前を忘れられたとかそういった個人の尊厳に関わるものがほとんどなのだと思う。『自分のことはその程度の認識だったのか』という怒りや悲しみが招く失望は相手を責めることで表現されているのだろう。

しかしこういう感情を覚えたとき『わたしはどうだろう?』と自問してみてほしい。料理の一品をいれ忘れたことは? 用事がバッティングしたことは? 中学の出席番号の一つ後ろの生徒の名前は?

もう一度言うが、人間は忘れる生き物だ。これらの忘却は当然起こりうるものであり、仕方のないことなのだ。

エビングハウスの忘却曲線や短期、長期記憶の研究に代表されるような考え方はこのような前提があってなされている。特に認知心理学の分野では、いわゆる『テスト効果』のように、思い出すことが記憶の定着を行ううえで最も効果的なものの一つとするものもある。

とすれば少し矛盾しているようになるが、『人間は忘れることで物事を記憶しているのではないか』と仮説することができる。

メモを思い出してみてほしい。私は習慣的にかなりの量のメモを取るのだが、それが買い物のメモであっても眺めたときに「あ、これ忘れてた」と筆を走らせたときのことが鮮明にフラッシュバックすることはないだろうか。

特に朝などは昨日考えていたことなど八割がた忘れているような気さえする。それを書いたものを見て思い出すだけでも、少なくともその日一日はそのことが頭のどこかにはあり、ふとした時に取り出して考えたりもできる。

つまり忘れることは脳をクリアにするだけでなく、記憶するためのプロセスなのだ。肝心なのはそれを思い出すためのシステムの方だと言える。忘れるということそれ自体はマイナスなどではなく、むしろプラス。退でなく進。悪でなく善なのだ。

だから私が取引先の担当者の名前を忘れても、それは何ら悪いことではない。

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