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散歩の途中 13

砲丸

 タクヤは早朝、砲丸の入ったバックを抱えてやってくる。ゆっくりとウオーミングアップをする。5㌔の鉄の球をぐりぐりとしごくようにして、右手で首とあごの間に挟み込んだ。
 砲丸のひんやりとした冷たさが、掌の温もりでじんわりと熱を帯びてくる。体を動かしながら、準備する間のだるい感じが嫌いではない。
 直径2・1メートルのサークルに入るまでの2、30分。まだ眠った体を投てきに持って行くまでのさまざまな動きをタクヤは一応決めている。芝に寝転んで、鉄の球を体のあちこちに転がしながら、体を少しずつ目覚めさせる。左右の手で、フィールドの芝生に落とすように投げ込んでから、ようやくサークルに入る。
 砲丸投げは不思議なゲームだ。身体を目一杯縮こまらせて、一気に爆発させる。ピストンの勢いと押し出す強さで数字(距離)にあらわれる。すべて数字だけが答えである。その単純明快さにタクヤはすっかりはまってしまった。砲丸投げの面白さを教えてくれたのは中1の時の担任の野掛先生。100キロ近い巨体で陸上部顧問。投てき専門。円盤と砲丸らしい。一応、高校時代は県大会レベルの記録を持っていたらしい。
 今は中年太りのアスリート。ただ指導書だけは星の数ほど読んでいて、ドイツ陸上競技協会の投てき理論などを時々引用したりする。理にはかなっているような気がする。
 早朝、市営陸上競技場のフィールド。300メートルトラックを持つ競技場は市民ランナーや散歩の年寄りに開放されている。
 トラックはにぎわうのだが、フィールドはいつも閑散としている。ジャンプのマットは長い間シートに覆われたまま、幅跳びの砂場も手入れが悪く、固まってしまっている。
 夏草が伸びきったフィールドの中で砲丸投げのエリアだけがきちんと整備されている。サークルと砲丸の届く範囲だけが円弧状にくっきりと浮かび上がる。
 投げた砲丸の落ちるのはほぼ15メートルのライン。タクヤは中2の2学期に本格的に始めた。このころから登校できなくなった。学校に行くかわりに毎朝、ここに来て投てきする。一応3年2組。朝、ひとりで投てきすると、野掛先生がトラックの外から腕組みしてじっと見ている。
 15メートルは中学の記録としては市の大会では3、4位に入る。学校には行けないが、早朝の練習は欠かさない。
 フォームは野掛先生仕込みで基本に忠実でいてダイナミックである。13メートルそこそこだった記録が半年で14・5メートルまで伸び、ここひと月はあとひと息で15メートルラインに届くまでになった。
 この朝、ウオーミングアップの頃から体が充実していた。「行けそうだな」。タクヤは砲丸を体のあちこちに転がしながら考えた。
 トラックの向こうから野掛先生がやって来るのが見えた。タクヤは、砲丸をあごの下にねじ込むといつものステップで右腕を空に突き出した。砲丸は夏草を押し潰すようにドンと転がった。15メートルをゆうに越え、鉄球は風に揺れるネジバナをなぎ倒して止まった。
 16メートルの自己新記録。投げ終えたタクヤは小さくガッツポーズ。野掛先生は親指を突き上げて笑っている。力感あふれる投てき。朝の光に向けた美しい抛物線。前へ一歩、ようやく一歩、踏み出せそうな気分。

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