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レコード神社vol3[ひねもす]MICABOX

先週の金曜日は「君の名を。」が放送されましたね。
普段アニメを見ない妻が
「この世界観好きだわ」と映像に没入
劇中には
神社や御神体、口噛み酒、組紐が登場します。
日本人の心のふるさとに大切にしまってある 
精神性や文明の中に忘れてしまった
日本人の感覚を呼び覚ます映画ですね。

今回の「ひねもす」by MICABOXを聞いて感じたのは
「神社で生演奏で聴きたい」という感覚です。
聴こうと思えばスマホで聴く場所を選ばずに
どこでも聞けるのに
あえて、神社という”場所”で聴きたいと思わせる
この音楽の魅力は何なんだろう。

走り書きのメモにはこう書いていた
<場から伝わる音楽>
<場所を作る事ができる音楽>
<場所と音楽、共同体の体験>

場所と音楽、体験と共同体

音楽にとって場所とはどんな意味があるのだろう。
一人ではなく集団で音楽を聞く意味は?

移動中(運転中の車内)に風景を楽しみながら音楽を聞く事が
体質に合っています。
ただ、この音楽体験は
僕自身の個人的な日常の体験でしかなく、
「ひねもす」が持つひらかれた音楽体験と異なります
<音楽によって佇むことができる場がひらかれ、
共同体に新しい繋がり=グルーブが生まれる>
人間が本来持っていた感覚をゆりおこす音楽なんです。
いわゆる「祭り」なんですが、
「フェス」ではないんですよね。
共同体に属しながら、
静かに自分自身に降りて行くことができる感覚が
あるんですよね。
それでいてポップ、一周回ってポップ。
この一周回ってポップって大事ですよね。
でも、DEMO,デモ
このポップさってどっから来たの?
学校で教わったわけでもないのに、
何となく身につけていて
親戚でもないのに昔から自分のことを
知っているおじさんのような
ポップて誰?

音楽が向いている方向

細野さんの『SWING SLOW』を聞いたときに
特に感じたのですが
アメリカ音楽の影響をもとに
日本のポップミュージックが作られ続けた
というご承知の事実があります。
それは外国の音楽を日本人になじませることができるのか
という実験でもあり、
アメリカの真似をしてみることであり
<あちら側の素晴らしさ>に憧れの視点を持って
音楽を作り続けたことであると思います。
『SWING SLOW』を聞くと
文化的に湾曲させられた日本人だからこそ
作ることができた音楽であると同時に
<文化の輸入、コピーして、輸出>
という大量消費の音楽の流れではなく
もっと日本人の内側の自由な場所から
自分にとってのポップスを作っているのでは?
とういう気になったんです。

この道はいつか来た道

日本の音楽=ポップス感はどのような分岐を
辿って今の形になったのだろうか。

はっぴいえんどファミリーがその一役を担ったことは
言うまでもない。
アメリカンポップスの影響を受け
その翻訳化や日本人になじみやすように
整える作業の歴史。
その中でも「バリの部分」というか
どう頑張っても西洋化できない部分は
あったろうし、ある事が自然。
隠しきれない部分を逆に
面白がろうというのが
「真夜中の民俗学」のスローガンになり得ると
確信に至る今日この頃。
ここに一枚のアルバムがあります。
 大瀧詠一氏の
『Let's Ondo Agein』
これはかなり確信犯的ですね。
今ではこっちの方が
ロングバケーションよりも
文化的意義や価値は貴重ですよね、
様々な諸外国のリズムと日本語の実験
を行ったからこそができる
日本の音頭ポップスの決定版!です。
アイドルソングや歌謡曲などの
大量消費される音楽の裏側では
細々と流れる用水路のように
日本人の失うことができない
精神性をポップスに忍ばせていたのかも知れませんね。

一旦止まって考える

私がゆうのもおこがましいのですが、
MICABOXの三上さんは
一旦止まって考えることができた人なんだと思うんです。
時代の流れに乗って時代に合わせたものだけを
作っていうことじゃなく
日本人の音楽の出発点まで歩いて行けた人だし。
神楽を通して
<古代>と<現在>をゆるやかにつなぎながら
<ふるさと>という
日本人の忘れられない感覚を<お土産>として
手渡してくれる
数少ない音楽家ですよ。



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