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アートの原価を見る日本人。アートが必要だった事がなかった国の変遷。

常に平常、常に平穏、常に自然。

暗いから明るくなろうとか、落ちてるから上がろうと昨今の騒ぎは無常がない。

しかしそんなものでまた平和がくれば思考は停止する。それを止めないものがアートだったり音楽だったりそこから生まれる対話だったりするのだけれども何もなくなる考えなくなってしまう。まあそれで良いのだけど。

生まれては消えるように波も引き際があるように考えてみる。
どの程度の時間幅か分からないけれどもいつかはまた変化が来る。そういう変えられないものと変えられるものからと捉えた時にやっぱり自分という座標に落ち着く。
落ち着きという常識?今までを0地点と考えなければ良い。しかしヒトは意外と柔軟である。

今はそう考えられない人間が騒いでいるだけである。
忙しい社会はいずれまた動き出す。
しかし大半の騒いでいる人に今は時間が生まれたのだからそこを喜べば良い機会である。

体を休め、自分を内省し、美味しいものを美しい事を感動を求めれば良い。意外に自分の中や周りにある。決して小さくもない、ただ見ていなかっただけだ。

先の不安より今の幸せを。

自身を憂う事もあるが、周りの人は社会の落ち着きのない事に未来を先を不安に心配に思っている。

もう何度もこれまでも繰り返している。
これを変えようという正義感のようなものは疲弊を生むし、そういう事をただ知っていれば良い。
目の前の事に目を向ける良い機会が今。

未来という時間軸に行く事は出来ない。
これまで予測の探求に走ってきた。
与えられた情報のみで世界を知る事に未来を予測する事に浮かれる。

拝金主義的価値観の中でそういった見えない不安、ネガティブが顔を出している時の人間の怖さとか愚かさを目の当たりにしてる。

その前に足元を実感したい。
一枚のレコードだったり1冊の本だったり体を動かして自分する見つめる作業だったり身近なモノから巡らせるきっかけから僕は実感を得る。

しかし少し外を見ればアホみたいな発信は止まらない。
なるべくそういう人や所に近寄らないようにする事はコロナウイルスを避ける事と同じ事だ。

今日そんなコロナウイルスの自粛モードな雰囲気の影響の中でMediaAmbition Tokyoのインスタライブストリーミングが行われてたので見ていた。
メディアアートについて2時間近くトークが行われる中、一つの出来事を思い出した。

昨年の森ビルのバスキアの展示初日に訪れた時、とある目の前の二人のカップルがアートの原価について話した。

「バスキアかっこいいよね、やばいね。」
「でも高いよね。これ100億以上するらしいよ。ピカソとかも高いじゃん。原価で考えたら2.3万くらいで作れそうじゃん?」

という会話だ。
多分二人は、画材屋にも行った事がないし、知識もないのだろう。またはその人間が制作までに至る時間や蓄積されたアイデア、行動までに至った力、それらには考えは当たり前に至らなかったのだろうと思う。
あと、この作品に取り組んだ時間含まれていない。

モノに対する価値はカネのみなんだなあと。
大衆芸術的価値観はそういうものだ。
そういった数知的評価にのみフォーカスされる。
ヒトはそれを取り上げる。メディアがそれを取り上げる事のせいにする。

対談の中でメディアアートの意味を問う中で
メディアアートの価値についての問いにも全く似たような答えがあった。

・リスクヘッジを考えた生き方やアートへの取り組み
・アートのコストパフォーマンス
・メディアアートのコスパ
・売れるもの?人に伝えたい?評価されたい?そんなものは自分の興味や好奇心のある夢中な事ではない。
・生きていければ良い生きていく手段があれば哲学はまあいいや感
・資本的に心配がない人間は楽しそうにやっている
・大変じゃない事をお金のつかないこと楽しそうなことをしている人を見るとムカつく
・日本のクルマトヨタのクルマは誰がデザインしたのか見えない
・民藝や無名の個人の(人、向こうが見えない)この作家の個性が見えないものを表す社会、無印良品
・ルールの中のアート
・他人に興味がないご飯が食えればいい
・平安からマッカーサーから戦後の家庭から全て保守的というご都合主義
・仏教も禅も儒教も道教も朱子学も陽明学も文化も言語もいい加減なご都合主義的解釈
・水墨画も渡来して以来、日本的なものが生まれるのに俵屋宗達まで400年くらいかかった
・つまり馬鹿な国のまともは10%、90%はそういう人間達だった事で今も悲惨だという事

つまり日本にはアートがない必要とされていない

上の事は日本における僕が体験したヒップホップカルチャーに対しても通ずるものでも当てはまった体験も多くある。

好きな事を好きにやる徹底、アーティストの徹底、自分の好奇心の趣くまま他人に無責任で自分に責任を持つ事、自分にとって必要な事は?を問えば良い。本質を見極める事をして生きていく事を考えていく。

一枚のレコードを念入りに聴いても良い。1冊の本を読む時間もある。ヨガや散歩で体を動かして自分する見つめる作業で得られるものを知ってみたり。
料理だって良い。一枚の絵を買って飾って眺めて見てみたらどうだろうか。ノートに詩を書いたり身近なきっかけから僕も得ている。
質量のあるアナログにこだわる必要もないけどそこに感じる重みはやっぱりある。
そういう事の繰り返しで考える時間を積み上げてたりする。夢中になっている。

毎回思い出すのが色川武大の言葉だ。

自分の関心に他人を参加させようとすることを、一応、やめてみよう
例外にひるまず、どんな例外にも身体が反射的についていくことができるかどうか

価値は心の中で育むものなのに数値化ばかり。自らの心や思念にアクセスする為の内省や言語化も持ち合わせていない。
今まで日本にアートは必要だった事はなかった。

比較的健康な時代は、物の値打ちと人の概念が、わりにひっついているものだ


言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!