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運命についての話

つい最近、運命についての話がちょろっとあったので

運命についてのお話。

なお本論では「運」と「運命」は別物として、分けて考えています。


『自分の見解』

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最初に自分の結論と見解です。

運命とは、運や偶然起きた事象に対して、その事実・結果を受け入れるための概念の1つである。

そのため、生前より未来など決まっていないというのが自分の思うところ。

まず起こった事実を認識した後、「こうなる運命だったのか」と運命と定義することがほとんどです。

しかし、もしこの先の将来・未來までも運命で決まっている考えるのは、妄想の世界です。


『偶然の確率』

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例えば、1日あたり自分は何人とすれ違い、何人と関わるでしょうか。

その人数は人それぞれズレが生じます。

それは1人ひとりが決断し、行動を取るタイミングが違うからです。

全てが複雑に噛み合って起きた事象を「偶然」とも言います。

自分がコントロールしている普段の行動の積み重ねが、
他人のコントロールしている行動とぶつかることで偶然が起きます。

今回の記事とは関係ないですが「人間のコントロール欲求」に関しての記事は多くの人に読んでいただきたいので、ぜひそちらもご覧ください。

話を戻しまして、

例えば、保険会社は「統計的に事故に遭遇する確率のデータ」を持っているため、偶然事故に合う確率もわかっているのです。

そして事故のない世界へ向けて進む自動車業界のおかげで、自動車保険はどんどん安くなり、最終的にはなくなるかもしれませんが、それはまた別の話。

また宝くじにおいても、1000万分の1枚の一等くじを当てるために、願掛けをし、数学的統計をはじき出し、あらゆる方法で運を操作しようとします。

これが先ほど載せた「コントロール欲」の記事の一部なのですが、宝くじもよっぽどの偶然が重ならない限り、当たりません。

宝くじに関する記事はコチラ。

何時何分、どこの売り場で、いくら分、前の人が何人いるときに買えば当たるというものが存在するなら、多くの人は同じように行動します。

天文学的な数字がかみ合った時に、初めて偶然と呼べる出来事が起こるのです。

「運」と「偶然」は紙一重ながらも「存在している」とは思います。


『運命の起源は宗教』

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しかし、これが生を授かった時から果たして決まっているのでしょうか。

もし仮に、生前から未來が決まっていると多くの人が認識したら、果たして人は何のために生きるのでしょうか。

起きた事象を全て運命と受け入れる人生、成り行き任せの人生をも受け入れるのではないでしょうか。

若くしてスポーツ選手となったのに、怪我をしてクビになり、今はアルバイト生活になってしまった。

こんな人生でも運命として受け入れられますか?


運命という言葉は「天命」「宿命」とも言われ、中国の古い時代からあるレベルに根強いものです。

そしてこれらの言葉は全て宗教的な思想に起因します。

あらかじめ定められた天命(職業)を禁欲でまっとうすることで神に救われるとされたことが運命に起因し、中国でも神が割り振った職業が運命であるとされてきています。


『帝王学という視点から』

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ここからは帝王学の観点から話を進めます。

帝王学をちゃんと勉強せずに、言葉の響きだけで選んでしまいましたが、「人心掌握」と捉えていただけるとありがたいです。

もし大衆を従わせて勤勉に働かせたいと考えたとき、

「お前の職業やポジションは生まれた時から決まっている」と、その時代の一番崇拝を受けていた神から言われたら、大衆はそれが「幸せになる道」と信じてしまいます。

今でこそ考えられないかもしれませんが、

上流貴族しか文字の読めない時代です。あの織田信長でさえ、田舎なまりの方言で、京都へ行く際に通訳として明智光秀を雇ったそうです。(諸説あり)

これは「宗教=国民統治の方法」という考えに基づいています。

大衆を従わせるために、大衆の味方をする神という存在を作ったという説ですが、

大衆の味方をする神に「お前はこの職業をまっとうすることで、没後の世界で幸せな生活を約束する」と言われている状態です。

そう本来の起源をたどれば、

「運命とは、勤勉に働かせるために大衆を納得させるための論法であった」

ということ。

国民を統治し、支配しようとする王にとって、

神という王よりも凄い存在を大衆に認識させることが全てです。


運が存在するために、運命は存在しない

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まとめです。

この章のタイトルに書いた通り、

「運が存在するために、運命は存在しない」がまとめにもなります。

2つは違うものですが、

「運」が存在するために「決まった運命」は存在せず、「コントロールできない偶然」が確立されてしまうのです。

運命とは「統治、支配の中で生まれた宗教的な論法」でしかないというのが自分の見解です。

しかし「運」や「偶然」というものは確実に存在しています。

確率が0%じゃない限り、「運」も「偶然」も常に存在しているということです。

その中で「偶然、王家の嫡男に生まれ、将来、王子や国王となる未来が運命づけられている」と、

「運」や「偶然」の事象を受け入れるために、「運命」という言葉を使っていたのではないか。

というのが僕の見解です。

見解ですので、信じるか信じないかはあなた次第です!としか言いようがありませんが、僕は信じません派ですという話。


【 追伸 】

この記事の中にも出て来た「帝王学」というものについて、「人心掌握」という意味合いでかっこつけて使っただけなので、実際は良く知りません。

リーダーシップについての中国古典である「貞観政要」なんかをまとめたような内容なのでしょうか。

まだ本も買ってないので、また勉強してみたいですね。

昨日初めてサポート機能なるものの存在を知りました。

もしサポートしていただける方がいれば、「こんなこと考えてみてください」というお話をいただいて、そのサポートを本に回して、読んでみたいなとも思っております。

是非、よろしくお願いします。


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