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【創作大賞イラストストーリー部門】第五列島「ステルス・ドッグ」前編


【あらすじ】
戦争=諜報戦争の時代。北連邦の諜報員であるスヴィーチェは、とある国への潜入諜報を命じられる。その国は『学校で諜報員を養成している』という噂があった。とある国――通称『第五列島』は、諜報社会において、諜報派遣・・立国として絶対的地位を築いていた。
スヴィーチェは教師として第五列島の学校に潜入。任務は、学校の情報を得ること、不可能な場合は自爆して学校に損害を与えろということだった。しかし、待っていたのはごく普通の高校生達の日常。諜報員などどこにも見当たらず、「噂は嘘だったのではないか?」と思い始めた頃。
彼女は噂の『学校』を、学校とは別の場所・・・・・・・・で見つけるが、それは……。


 
 ああ、これは暗に『死んでこい』と言われているのだと分かった。

 
 キノコがよく育ちそうな部屋で、上官であることを態度に出した男と、部下であることを微塵も疑っていない女が、机を挟んで向かい合っている。
 男は頭を抱え、気が滅入るような溜息をはいて椅子に座っているのに対し、女は律儀に手を背中で組み、平然とした表情で男が口を開くのを待っている。それがまた、男の癪に障った。

「これで何人だ、スヴィーチェ」

 主語が抜けた、男からの唐突な質問。
 女――スヴィーチェは軍人らしく「はっ!」と短い応答を入れ返答する。

「十三人だったかと思料します、ログラフ長官」

 正確に抜け落ちた部分を読み取って答えたスヴィーチェ。しかし、その優秀さが男――ログラフの苛立ちを加速させる。

「そんなことは分かっとる! 正確な数字など聞きたくないわ、黙っとれ!」
「はっ! 黙ります」

 実に理不尽この上ない怒声なのだが、しかしやはりスヴィーチェは、ちっとも顔色を変えず軍人らしい返答に終始した。
 一度、怒声を発したことで頭の熱も冷めたのか、ログラフは背もたれにゆるりと身体を預ける。座り心地の良さそうな革張りの椅子が、ギッと鳴く。

「十三人もだ。我が諜報部の精鋭が十三人も……っ。人も情報も全てあの第五列島に喰われっぱなしだ。我が国だけではない。西も南も、中央すらも、あの矮小な国に諜報員を潜入させているようだが、今のところどこの国も有益な情報は得られていない」

 第五列島と口にしたときのログラフの顔は、苦虫を十匹は噛みつぶしていた。
 第五列島――正式な国号は『日央国ひおこく』と言い、極東海に浮かぶ小さな島国である。第五列島というのは外側からの通称であり、皮肉でもあった。

「何が諜報派遣立国だ。ただのハイエナだろうが」
「…………」

 スヴィーチェは上司の言葉に相槌を打つのをやめた。
 黙れという命令を律儀に守っているからではない。これが彼の独り言で、相槌を必要としていないのを知っていたからだ。そのような彼の声音の僅かな差異に気づけるほど、彼女は彼の部下になって長い。それに、恐らく彼は、自分が黙れと命令したことももう忘れているはずだ。
 五歳で拾われ、諜報員としての教育だけをたたき込まれはや幾星霜。表に生きるより、裏で生きる時間のほうが長くなってしまった。
 コトリ、という机に何かが置かれる硬質的な音で、スヴィーチェは意識を浮上させる。
 音がした場所には、金色の銃弾がひとつ、転がるようにして置かれていた。

「君は第五列島の血を持つんだったな」
「祖父がそうだったと聞いておりますので、四分の一はそうですね」
「であれば、幾分か他の諜報員より侵入しやすいだろう。これ以上の損耗は容認できない」

 丸みを帯びた尖塔形の金属は、日常的に愛用しているルガーSP101のものだ。それをログラフは指で弾いた。

「そこで我が部は一つの結論に至った――奪えぬなら壊してしまえ、と」

 銃弾はコロコロと机の上を転がり、端から落ちそうになったのを、スヴィーチェがぎりぎりのところでキャッチする。

「自決用……ですか?」

 ログラフは否定も肯定もせず、今度は白い直方体のものを三つ机に置いた。三つ合わせてティッシュケースひとつ分くらいの大きさか。

「起動させればお前の心音と連動し、一定時間、音が確認できなければ作動する」

 ああ、そういえば拾われたとき、何か分からない手術を受けさせられたな、とスヴィーチェは今になって、自分の身体に何をされたかを知った。
 そして、部が出した『奪えぬなら壊してしまえ』という結論の意味も。
 情報が持ち帰られない状況に陥ったときは、相手共々死ねということだった。
 そういえば、何代か前の世界大戦でも、このような作戦が横行したと学んだ覚えがある。特攻というやつだったか。

「お前には、第五列島の東にある学園都市へ、教師として潜入してもらう」
「教師ということは、目標点は学校という事でしょうか。そのような場所に秘匿情報があるとは思えませんが」

 年季の入ったログラフの眉間が、さらにキュウと絞られる。

「妙な噂がな……」
「噂……ですか?」
「ああ。第五列島は学校で諜報員を育てているらしい」
「そ――っ!」

 そんな重大事項が噂として出回るだろうか。というより、そのように不確かな情報で貴重な諜報員を送り込むとは正気か。

 ――いえ……ここでの私の価値なんてそんなものだったじゃない。

 どこの国でも女の諜報員は嫌厭される。男と比べて色恋に堕ちやすく、男所帯が多い軍部関連施設での諜報が不利だからだ。しかも惚れた男のためには簡単に国を裏切ったりもする。過去に、敵国の諜報員と恋に落ち、二重諜報でこちら側の情報を抜かれていたこともあり、余計にこの国では女の諜報員の価値は低い。
 つまりは、何か得られたら儲けもの。何も得られなくとも、施設破壊で少しはダメージを与えられるからまあ問題なし、といったところか。

「頼んだぞ、スヴィーチェ。今こそ拾ってやった恩を返せよ」
「はっ! 我が北連邦の栄光のために」

 手の中にある慣れ親しんだはずの金属が、今はやけに重く感じた。


        ◆


「ねえねえ、あまねちゃんって彼氏いるの?」
「周先生でしょ、白雪しらゆきさん」

 数学の授業が終わり、教卓の片付けをしていたところに、いつものように、黒とピンク色の目立つ髪を揺らしながら白雪がやって来た。

「それと、先生のプライベートなことは秘密です」
「あでっ!」

 白雪の額を人差し指で軽く弾いてやると、彼女は「ちぇ」と小さな唇を尖らせ拗ねた目を向けてくる。
 赴任初日から懐いてくれている可愛い生徒なのだが、いかんせん距離が近すぎる。先生と生徒ではなく、彼女の中では隣のお姉ちゃんくらいにしか思われていない気がする。
 彼女は、少し赤くなった額を撫でながら「じゃあ」と口を開いた。

「周センセのことについて教えて?」

 上目遣いに問いかけられた質問に、何故か周はドキリとした。頬を赤らめるようなものではなく、背筋に冷たさが落ちるようなものだが。

 ――た、単純に彼女は私の仕事について聞いているだけよ。

 しかし、何かを探られているような気がしてならない。ただの女子高生相手に、自分はなんという感情を抱いているのか。

 ――考えすぎよ、私ったら。


「ねえねえ、周センセーってばぁ」
「周=ラドフォード! 二十三歳! 女! 担当教科は英語! 以上!」

 周はまくし立てるように早口で言い終えると、教科書を小脇に抱えてさっさと教室を後にした。背にかけられた「そんなだから非モテなんだよぉー!」という声は聞かなかったことにする。

「……モテるもん…………多分」

 周はズビッと鼻をすすった。



 スヴィーチェが『周=ラドフォード』として、東学園都市にある桜見さくらみ高校の教師になって早半月が経っていた。

「本当にここが諜報員の学校なの? 普通の生徒達ばっかりじゃない」

 ひとり屋上へとやってきたスヴィーチェは、夕日を浴びてノスタルジックな趣になった建造物群を眺め、溜息をこぼした。

「ていうか、こんなのどかな国が第五列島なんて……誰が想像したっていうのよ」

 眼下には整備された道路や街路樹が並び、その中を学園都市の名にふさわしく、様々な制服を着た学生が歩いている。少し視線を左右にずらせば、今度は青々しい田園風景が広がる。
 切り取った未来を強引に過去に植えたような街。
 実に平和そのものの光景なのだが、今やこの国は第五列島と揶揄される『諜報派遣立国』である。別称の由来であるが、かつての世界大戦時、とある国が諜報集団を第五列と呼んでおり、それと島国であることを掛け合わせた結果だ。スヴィーチェの祖国のような軍部の一部署とは規模が違う、『国』そのものが諜報活動を主導しているという異常を皮肉っている。
 
 
 現在、世界で戦争と言えば、軍関係者の中では情報戦争のことを指す。
 四度の世界大戦は、人だけでなく地球という資源にも甚大なダメージを残した。終わりのない重火器による物量作戦は大地を焦土と化し、有限である資源の枯渇期限を格段に早める結果となった。
 そこで世界は一つの結論に至る。

『戦火のない戦争であれば良いのでないか』と。

 禅問答のような首を傾げたくなる結論ではあったが、つまりは、戦争に至る前に決着をつければ良い、ということらしい。
 では、戦火のない戦争が何を指すのかというと、それこそ今の情報戦争であった。

「争いを起こさないっていう発想が端からないのが、笑える話よね」

 得た情報を元に各国交渉をするというが、水面下では諜報員が摩耗されていくことになる。
 そこで突如現れたのが、第五列島だ。
 大戦中は沈黙を守っていた国が、諜報員を派遣すると言いだした。傭兵の諜報版である。
 諜報員は兵士と違い、素質によるところが多く容易に増員できない。
 では、派遣諜報員であればどうか。
 自国の情報は渡す必要はなく、相手国の欲しい情報をとってこいと命令するだけで良い。もしそこで損耗があったとしても、自国の諜報員は無傷。成功すれば欲しかった情報を手に入れられる。そこそこの金は必要だが、一から諜報員を見つけ育てることに比べれば安いものだ。

 しかし、これには問題があった。元より、友好国間では連絡員を派遣しての情報交換も行われており、声を上げたのが平和主義国だったこともあって、皆、警戒が薄れていたのかもしれない。そしてその問題に気付くまで、世界は充分に第五列島の恩恵にあずかりすぎていた。
 彼らは『派遣』諜報員である。依頼が終われば、元の場所へと戻っていく。『脳』という、決してどこからの侵入も受けない保管庫に情報を詰めこんで。派遣諜報員を使えば使うほど、全ての情報が第五列島に集積していった。
 この情報戦争時代において、情報の多さは純粋な戦力だ。

「それで今更に、各国が第五列島へ諜報員を送り込むだなんて」

 各国、見くびっていたのかもしれない。あんな極小国に何ができるのかと。せいぜい自分たちの手足となって働けと、上から見下していたのだ。

「十三人……」

 それは、この国に潜入して帰ってこなかった同僚の数。

「十四……には、したくないわね」

 胸の間に仕込んだ、例の弾を使う日が来ないと良いのだが。
 スヴィーチェは片手にすっぽりと収まる円柱形のコンパクトカメラで、眼下の景色を撮った。

「おや、先客がいましたか」

 突如、気怠そうな声が背後から聞こえた。振り返れば、屋上の入り口に白衣を着た男が立っているではないか。

「あら、牧野先生……いつからそこに?」

 ドアが開けられた音など聞こえなかったが。それほど自分は写真を撮るのに夢中になっていたようだ。

「今し方ですよ。ラドフォード先生はこちらで何を?」

 スヴィーチェより確か二つ三つ上の牧野は、寝癖のついた髪とくたびれた白衣がトレードマークの教師だ。牧野はスリッパをスパスパいわせながら、スヴィーチェの隣に並ぶ。

「その……手に持たれているのはカメラですか?」

 スヴィーチェの手の中にすっぽりと収まる物に、牧野はめざとく気付いた。

「ええ。私、ここから見える夕焼けの景色が好きで、よくこうして写真を撮るんです」

 何食わぬ顔して答えれば、彼はへらっと相好を崩して「良いご趣味ですね」と頷いていた。

「どうです、学校には慣れましたか」
「ええ、皆良い子達ばかりで。よく話しかけてくれる生徒もいて、ありがたいです。まあ、ちょっと距離が近いかなーなんて思うこともありますが」
「ははっ、白雪でしょう、変わってますよね、あいつ。誰にでもあの距離感ですし、アイドルに憧れているらしいですよ」

 そう。この情報戦争はあくまで水面下の軍部に限った話である。一般人は、諜報員があちらこちらにいるとは知らない。アイドルを夢見られるほど、一般人の世界は滞りなく平和である。

「ああ、アイドル。彼女ならなれそうですね」

 切り揃えられた黒髪にはピンクのインナーカラーが映え、靴下はいつもリボンだとか天使の羽だとかの飾りがついているし、使っているのはスクールバックではなくこれまた羽の生えたリュックだ。洗練された印象があるが、淡いそばかすがちょうど良い親しみを付加している。
 距離が近いだけでなく、誰よりも目を惹く女の子である。

「あいつも転校生なんで、まあ、仲良くしてやってください。もしかしたら、あの派手さなんで友達ができづらいのかも」

 スヴィーチェは、牧野の顔には似合わない細やかな気遣いに驚きつつも首肯した。

「そういえば、確かラドフォード先生は、おじいさまが日央国の方だとか」
「ええ。おかげでこうして教員として働けますし感謝してます」
「どうして、日央国に? 生まれは……」
西欧国せいおうこくです。祖父が亡くなるとき、日央国に帰りたいと言いまして、どんな国だろうって興味を持ったんです。それで、祖父の代わりに祖父の血を引いた私が帰れば、少しは報われてくれるかななんて思って」

 牧野はそうなんですかと言いつつ、白衣から素の煙草を取り出した。
 それを見て、スヴィーチェは「では」と挨拶して屋上を後にする。蝶番ちょうつがいがさびた音をたててきっちりと背後で閉まった。


        ◆


「彼氏かあ……」

 そんなものできたためしがない。
 軍部に連れてこられてからは、ずっと諜報員としての技術をたたき込まれてきた。技術を習得しなければ命の危険性は増す。当然、男をと考える余裕などあるわけがなかった。
 スヴィーチェは教員用に与えられた宿舎の一室で、大の字になっていた。
 古すぎず、新しくもない変に落ち着くちょうど良い部屋。天井のシミも、数えるにはちょうど良いくらいの汚れ具合。
 ワンルームの中心に置かれたテーブルには、小箱が二つ無造作に置かれている。

「いい加減何かしら情報を得ないと」

 命令では、一ヶ月以内にとれる情報は全てとってこいということだった。あまりにも短い期間。それほどに本国は焦っているというのか。待つ時間もないほどに。
 携帯電話は傍受される恐れがあるため使用不可。もちろん、インターネットなどもだ。今や機密情報などを電子の海に置く馬鹿はいない。海には海賊がわんさかといる。

 たとえ、オンライン世界から隔離されたエアーギャップシステムによって情報が管理されていたとしても、やはりウィルスやクラッカー侵入を完全に防ぐことは困難だ。つまり、スヴィーチェが情報を本国へ持って帰ってこそ、任務完了となる。もしくは……。

「……本当に、あの噂は信じてもいいのかしら」

 学校で諜報員を育てているという噂で、こうしてスヴィーチェは潜入させられている。しかし、どこにも諜報の『ち』の字も感じられぬほど、この学校は普通なのだ。
 黒板に書いた文字を必死に書き取る姿も、先生が背を向けている隙に友人に手紙を回す遊びも、授業終了のチャイムが鳴る二分前からソワソワと時計を見つめる様子も、どこにでもいるただの少年少女の姿でしかなかった。

 スヴィーチェは、布団の上に適当に投げた白衣を、寝転がったまま指先だけで自分の方へとたぐり寄せる。ポケットを漁ると小さなカメラが出てくる。屋上で使っていたものだ。
 潜入当初は内ももに必要な物をくくりつけていたのだが、牧野の白衣を見て真似させて貰った。数学教師なのに何故と思ったが、チョークの粉で服が汚れるのを防ぐためとのことだ。ヨレヨレの格好をしているのに、意外とチョークの粉を気にするのかと少々驚いた。

「あれ、地味に擦れて痛かったのよね」

 寝転がったまま単眼鏡のようにカメラを覗きこむ。脇のボタンを操作すれば夕方に撮影した写真が流れてくる。

「というか、その噂はどうやって手に入れたのかしら」

 カチ、カチ、と写真をスライドさせていく。
 不意に手が止まった。
 それは、下校する生徒達が映る何気ない写真。皆がこちらに背を向け正門を目指している。しかし、蟻のようになった彼らの中で、一匹だけ浮いた存在がいた。
 写真をズームして違和感の正体を確かめる。

「しらゆ――っ痛ぁ!」

 写真越しに合った目に、思わずスヴィーチェはカメラを取り落としてしまった。驚きでカメラを下手に遠ざけてしまったのがあだとなり、眉間にクリティカルヒットを受けひとり悶絶する。
 黒髪に派手なピンクカラーに彼女の天真爛漫さを表したような淡いそばかす。スクールバッグではなく黒のリュック。足元は……。
 彼女だけは背を向けていなかった。昇降口に残る誰かを待っているのではない。ズームした彼女は不敵な笑みを湛え、こちらを――屋上をしっかりと見据えていたのだから。

「ア……ッ、イドルには黒すぎる笑顔じゃない……!」

 ジンジンと痛む眉間を押さえ、垣間見えた彼女の新たな一面に、明後日方向の八つ当たりをするスヴィーチェ。

「アイドルより女優向きよ!」

 意味の分からない文句を吐きながら、スヴィーチェは頭のどこかで『彼女も死ぬかもしれないのか』と、他人事のように冷静に考えていた。

「ま、それは私も一緒か」

 口にしてみたものの、やはり自分は思いのほか冷静だった。

「ていうか、なんで上履きで帰ってんのよ……」

 彼女の足元は靴ではなく、白い上履きだった。やはり彼女はどこか変わっている。


        ◆


 食堂の端でひとりカツ丼に舌鼓をうつスヴィーチェに、最近では耳にタコができるほど聞き慣れた声がかけられる。

「周ちゃん、一緒に食べてい~い?」
「そういうのは座る前に聞くものよ、白雪さん。いいけど」
「さっすが周ちゃん。フランク教師ぃ」
「せめてフレンドリーと言ってちょうだい。私が教師失格みたいじゃない」

 向かいの席に腰掛け、白雪はオムライスの真ん中にスプーンを入れた。真ん中だけにケチャップが掛かった、絵に描いたようなオムライス。男子生徒を基準として作られているのか、彼女には大きいように思える。スプーンを差し込んだところから、もあっと湯気が立ち、トマトの甘酸っぱい香りがスヴィーチェの食欲を刺激した。今度はオムライスを頼もう。

「周ちゃんはねえ、教師っぽくないから教師失格でいいんだよ」

 咀嚼途中だったカツが、そのまま喉を滑り落ちた。無理矢理に飲み込んだため、喉からはゴクンと大きめの音が鳴ってしまう。

「き、教師っぽくないって、し、心外だわ。いったい私のどこが失格なのかしら?」

 食道をゆっくりと落ちていくカツを、水で迅速に胃に流し込む。
 もしかして、噂は本当だったのか。
 学校で諜報員を育てているというのは。
 しかし、スヴィーチェの緊張をよそに、白雪は口端についたケチャップをペロリとなめ取りながら、「んー」と曖昧な声を出す。

「教師ってさ、やれ校則を守れだとか、靴下とか髪の色だとか、スカート丈なんか煩いじゃん。でも周ちゃんって、一度もそこであたしを注意したことないなって」

 スヴィーチェはなんだ、とひとり安堵の息を心の中で漏らした。

「それは、国民性による違いかもしれないわね。向こうじゃ制服自体ないのが当たり前だし、髪色なんて色々ありすぎて規則を設ける方が大変だもの。あなたがどんな格好でいようと、注意するほど気にはならないのよ」

 しかし、注意するほど気にはならなくとも、つい彼女には目を奪われてしまう。

 ――何かしら? よく分からないけど、何となく彼女だけういてるっていうか。

 見た目の話ではない。スヴィーチェの本能とも言える何かが、彼女に意識を割こうとするのだ。

「そういえば、白雪さんは以前はどんな学校にいたの? 転校生だって牧野先生から聞いたけど」
「あー牧野っちね。相変わらずお喋りだなあ」

 牧野への呼び方に、『誰にでもあの距離感』という彼の言葉を思い出し、納得する。

「前はねえ、ここよりもずっと厳しかったなあ。何人もやめる子いたし」
「じゃあ、白雪さんも厳しくてこっちの学校へ移ってきたの?」

 白雪はまた「んー」と曖昧な声を漏らしながら、オムライスを口に運んだ。
 彼女が咀嚼し終えるまで、妙な間が生まれる。

「まあ、あたしの場合、転勤族みたいなね。そんな理由だし」
「そう……?」

 確か第五列島の学校は、少子化のあおりで東西南北に築かれた学園都市に、学生を集中させているはずだが。もれなく全寮制で、親の転勤の影響を受けるとは思えない。

 ――っても、私も第五列島の文化を完全把握しているわけじゃないし、何か特別な事情があったのかもしれない。

 気付けば、白雪のオムライスは最後の一口を残すところとなっていた。音も立てずいつの間にか綺麗に平らげてしまっている。その細い身体のどこに収納したのか。

「若いって良いわ……」
「アハハッ! 何言ってんの。周ちゃんだってまだ二十三じゃん」
「社会の下っ端は、色々と押しつけられて胃が限界なのよ」

 白雪は「ナニソレ~」と腹を抱えて笑っていた。今のどこに笑うポイントがあったのかは分からないが、この国では、箸が転がってもおかしいという年頃らしいし、そんなものだろう。自分は普通の成長過程を経てきていないため、その言葉にしっくりはこないが。 白雪はひとしきり笑うと、目尻に滲んだ涙を拭い、前のめりになってテーブルに上半身を乗せた。

「ねえ、周ちゃん……他に牧野っちから何か聞いてない?」

 一段だけ潜められた声だった。

「ええ。あなたがアイドル志望だっていうこと以外は、何も聞いてないわよ」
「聞いてんじゃーん! てか、牧野っちありえなーい! ひっど!」

 白雪の潜め声に合わせて、スヴィーチェも声量を下げたのだが、彼女はそんなのお構いなしに大声をあげて仰け反った。
 なんの潜め声だったのか。

「あなたはアイドルっていうより、私は女優にむいてると思うわ」
「……なんで?」

 いつまで仰け反っているのか。白雪は天井に顔を向けたまま聞いてくる。

「いろんな顔をもっているからかしら」

 無邪気でちょっと距離が近すぎる生徒かと思えば、不敵な笑みを浮かべるミステリアスな女で、こうしてお笑い芸人のようなオーバーなリアクションもとれる。
 コロコロと変わる彼女の様子は、まるで役ごとに表情を変える女優そのものだ。

「周ちゃんって、やっぱり面白いよね。その仕事、似合ってないよ」

 ギッと椅子が軋みをあげると、ようやく彼女の顔は正面へと戻ってきた。

「はいはい。それでも大人は働かないと、こうして美味しいカツ丼は食べられないんですよ」
「それ、学食で人気最下位のメニューだよ」
「うそっ! こんなに美味しいのに!?」

 思わず、カツ丼の器を持ち上げて凝視してしまった。

「使ってるの成型肉だし」
「美味しすぎて、毎日コレばっかり食べてたわ!」
「貧乏舌可哀想」
「真面目トーンはやめて。すごくえぐられる」


 ――仕方ないじゃない。本国ではずっと豆を煮たものや、豆を潰したものや、豆を焼いたものばかりだったんだから。こんな、できたてホカホカで卵とろっとろのカツサクサク甘辛ご飯なんてなかったのよ。

 でも明日からはオムライスにしよう。
 ショックを受けつつも、スヴィーチェは残っているカツ丼をちまちまと食す。これが最下位などと信じられないのだが。この国の人間の舌が肥えすぎだと思う。

「ああ、それと白雪さん。上履きで登下校するのはどうかと思うわよ」
「やっば。ばれてた? 癖でついそのまま出ちゃうんだよねぇ」
「確かに海外じゃそれが当たり前だけど、ここの国の文化は違うでしょ。ちゃんと履き替えてね」

 ――ん、癖?

「はいはい、気をつけま~す」

 全く気をつける気のない返事をしたあと、ずいっと顔を寄せてきた白雪によって、浮かんだ疑問が一瞬にして霧散する。

「そうそう、牧野っちには気をつけるんだよ、周ちゃん。あの人、嘘つきだから」
「え、それってどういう――」
「じゃあね、周センセ。五時間目あたしのクラスでしょ? 授業遅れないようにね」

 白雪はトレー片手に立ち上がると、爪が桜色に塗られた手をヒラヒラさせながら、颯爽と食堂を出て行ってしまった。

↓後編

↓余話

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