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【SF】サイバーパンクの映像化(80年代)

中学生の時に出会って、その後何回も読んだ『ニューロマンサー』ですが、映画化の話も何度もあがっては消えてきたのが、ついにドラマとして実現しそうで興奮しています。
84年発表、訳書は86年のハヤカワ文庫SFですが、それを皮切りに早川書房はSFマガジン編集部を中心にキャンペーンを貼り、見事にサイバーパンクのトレンド化に成功しました。
サイバーパンクはSFのサブジャンルですが、当時の米国では「運動」として、ブルース・スターリングなどによって展開されており、日本での商業的な成功とは少し違った様相がありました。
そうした状況も巽孝之の『サイバーパンク・アメリカ』などで把握しつつ、ハヤカワ文庫から発売される小説はできるだけ網羅するように読んでいましたので、ギブスンのほかスターリング、ベア、またオリジナルアンソロジー『ミラーシェード』なども当然読みました。

そうすると、『ブレードランナー』(82)は確かに『ニューロマンサー』の千葉シティみたいではあるけど、内容的にはあくまで60年代のディックであってサイバーパンク的ではないなと思わされるわけです。
当時の映画作品だと、『ターミネーター』(84)などは結構いい線いっていたものの、機械やコンピュータの反乱に人類が対抗する、という基本設定は古典的すぎました。
そもそも82年の『トロン』も、人間がコンピュータの世界に入り込むという、割と明確にサイバーパンク的なアイディアをやっているけどストーリーにパンク感がゼロという映画でしたね。
その意味では99年の『マトリックス』でさえ、機械VS人類という図式から脱却していません。
19世紀の『フランケンシュタイン』から続く、神への叛逆にして二項対立図式である物語はポストモダンとは言えないなって感じだったのです。

一方で、シンプルなジャンルムービーとされがちな『ロボコップ』(87)は、人間と機械の中間、というより、双方のいいとこ取りみたいな状態に帰結する主人公の存在がサイバーパンク的です。
逆に悪いとこ取りになってる感じの『ザ・フライ』(86)も、やはり結末にサイバーパンク風味があります。
テクノロジーが人体や人間性を侵蝕する『ビデオドローム』(82)も同じクローネンバーグで、共通するテーマがありました。
この系統だと大友克洋『AKIRA』(82年連載開始)と塚本晋也『鉄男』(89年)は、十分サイバーパンクでしょう。

そんな中で、もっともサイバーパンクを明確に意識した映像作品が英国のドラマシリーズ『マックス・ヘッドルーム』でした。
もともとは84年の音楽番組のバーチャル司会者というキャラクターだったようですが、85年からドラマ化。
この1本目は日本では劇場公開され、またドラマシリーズはビデオ発売、そのプロモーションとして無料でビデオソフト(広告映像が入っているだけの短いもの)を「チラビデオ」(チラシとしてのビデオ、予告映像だけだからチラ見せって意味もあり?)と称して新宿アルタ前で大々的に配布したりしてました。
私は劇場に観に行ったしアルタ前にも行きました。
でもビデオは当初セルオンリーだったので本編観るのは結構難しかったですね。
その後NHKでオンエアされたりして少しずつ全体を観ることができるようになりました。

ビデオ記者エディスンの記憶と人格を移植されたコンピュータキャラクター、マックスがエディスンのバディとなってメディアの闇を暴く、というような物語でした。
荒廃した環境にTVモニターだけが光っている世界、TVのスイッチをオフにしてはならない、メディアと広告が政府より力を持っているとの設定はかなりサイバーパンク的でした。
ドラマ自体は意外とオーソドックスで、結構良心的な作風だったりするのが美点でもあり、パンチの弱さでもあったかな。
サイバースペースは出てこないですが、マックスがコンピュータネットワークの世界に棲んでいてネットワークを自由に移動する、というのは、例えば『攻殻機動隊』の「人形使い」に影響を与えたイメージではないでしょうか。

そんな調子で、サイバースペースが明確に出てくる映像作品は意外と少なく、私の記憶では87年の米国製子供向け特撮ドラマ『キャプテンパワー』に出てきた「サイバーウェーブ」がかなりサイバースペースっぽかった印象です。
CGを使っていたかも定かでない単なるビデオ処理だったかもしれませんが、ゴーグルをつけてコンピュータの世界に入り込んでました。
しかし子供向けの特撮というのは野心的なもので、日本では88年『電脳警察サイバーコップ』という笑っちゃうタイトルのTV番組があって、「ブレードライナー」っていうバイクとか、色々がんばってましたね。
CGを使わないサイバースペースという意味では『電光超人グリッドマン』がそうなんですが、調べたら93年ということで結構後でした。

あと、88年にフジテレビで深夜放送された単発ドラマ『CIRCUIT NURSE』はかなりいい線行っていて、私は録画して何度も観て熱狂してました。
ビデオアート系のインスタレーションをやっていた原田大三郎氏が総合演出となっていて、コンピュータの世界で起きていることと現実の事象の区別がつきづらい演出は実にサイバーパンク的でした。
ストーリーは非常にわかりづらかったのですが、ヒロインの脳?身体?にコンピュータプログラムが入り込むような、『攻殻機動隊』1巻の結末みたいな話だったと思います。

とりあえず、記憶をもとに語ると、サイバーパンク運動当時のサイバーパンク映像というとそんな感じでした。
CGに金がかかりすぎる時代だったこと、ギブスンのサイバースペースというアイディアは基本的にわかりづらいので映像化も難しいこと、サイバーパンクの中心をなす思想が過激であったこと、そもそも小説がどれも難解であることなど、『ニューロマンサー』などの映画化ができる時代でもなかったということですね。
念のため申し上げておくと、サイバースペースが出てくるサイバーパンクはギブスンの作品だけであって、サイバースペースはサイバーパンクの必須アイテムというわけでは全然ありません。
しかしながら太陽系を股にかけるピカレスクロマンである、スターリングの『スキズマトリックス』(85)なんて、もっと映像化不可能です。

ただ、ベアの『ブラッド・ミュージック』(85)はジョー・ダンテの『インナースペース』(87)に影響を与えていると私は思っていますし、ブルース・スターリング&ルイス・シャイナーの短編『ミラーグラスのモーツァルト』(86)はドイツのラッパー、ファルコの『ロック・ミー・アマデウス』(85)にシンクロしていたり、80年代を彩るイメージの底流であったことは確かです。

そう考えると、『ニューロマンサー』を40周年を機に映像化するということは、その後アップデートされた未来イメージを反映して最新モードの映像をめざす方向のほか、80年代当時のテクノロジー観とイメージで作る一種のレトロフューチャーでやる可能性もありそうです。
個人的にはずーっと映像化を夢見ていたから、前者の方向でやってほしいですが。

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