有限恐怖症と怖いもの見たさ

左のもみあげに出来たにきびから血が流れている。それが借りてきた本に付かないように手を洗いつつも、久しぶりに見た自分の血に、少しの高揚感を感じる。唯一私が自由に流すことのできる血のはずである。

二日間風呂に入っていないので、体からも衣服からもどことなく獣のような匂いがする。これも当たり前のことでありながらどことなく新鮮で嬉しい。日々訳のわからないことで頭を悩ましながらも、実際には何もしていない人間の出来損ないのような自分でも、動物ではしっかりとあるらしい。いくら自我と他者の意識の関係なんかで悶々としていても、有機物としての自分の体は順調に臭くなっている。あるいは頭の中の行き場のないモヤモヤが腐ってきたのかもしれないが。

不潔だ、汚い、モテるには清潔感が大事だ、等々の声が聞こえている。だが大丈夫だ。ここは僕の部屋で、他の人はいない。誰もわざわざそんな文句を言いにくることはない。

いくらツイッターやインスタやディズニーやスタバがお化けのようにしか感じられなくとも、そこに群がる人々の心が恐ろしくとも、風呂に入らないと体が小便臭くなっていくというのはしっかりと存在感を持って立ち現れてくるのだ。ちょっとした感動である。この芳香の少しじとっとした、確かな実在。

自分はいつからか分からないが、自分が生きていると感じることを恐ろしく思うようになっていた。手の脈を測る時でも、この弱々しい液体の流れによってこの意識が成り立っていると思うと頭がくらくらしてくるし、眠ろうとする時に枕に頭を押し付けると、耳の横のあたりで血液が脈を打っているのが聞こえるような時も、ぞっとして、それが聞こえなくなるような姿勢を探る。

自分は、あまりにも臆病すぎてなのかなぜなのか知らないが、自分に与えられたこの体というものを、その有限性を受け入れられていないのかもしれない。どこかで自分の体は交換可能だと思っているような節がある。これは他人から言わせてみれば、ゲーム的な考え方になってしまっていて、命が何機もあるような状態を仮想していると映るかもしれない。あるいは物心二元論といった考え方が昔から根強く人間の内にあるように、魂、私の意識、というものは不滅で、こんな頼り甲斐のない、華奢で小さい自分の身体なんてものは仮の住処でしかないと、思いたいという心理を持っているのかもしれない。

思えば自分は何かにつけ取り返しのつかないことというのに言いようのない恐怖を感じる。あるはずだ、と期待していたものがないという状況があまりにも嫌なので、そうなる可能性を持つぐらいだったら何もあると期待しない方が良い、と考えてしまうこともある。
シャーペンで何か書くときは、逆の手に消しゴムを持っていないと落ち着かない。書き間違えた時にすぐ消せるようにだ。
自分のものを無くして悲しくなってしまうぐらいだったら、最初から自分のものなんてないはずだと考えようとしてしまう。その結果そもそも物を人が所有できるという考え方次第がおかしいとかいうことになって、こんな気持ちになるのは資本主義のせいだ、とか考えて一旦捌け口を作っている。禅宗で言われるという本来無一物とかいう言葉を聞いて落ち着くのもこの感覚のせいだろう。

できることなら、自分と世界が一体となって、一つの流れの中にあるような状態になりたい。だがしかし、自分の臆病な心が、決してそんな心持ちにはさせてくれない。

しかしこんな有限なものを恐怖するような心がある一方で、自分の身体から血が流れることを見て少し安堵している自分がいる。これはどうしてなんだろうか。

もしかしたら、自分と世界というものが表層的には別々になっているように見えていても、壊れたら中身の血が出てくるとか、そういったよりシンプルな次元の層から見れば、自分と世界は繋がっているというようなことが、感じられるような気がしているのかもしれない。そんな一縷の望みのようなものを期待して、たまに僕は風呂に入らないでみたりするのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?