誰かが自分のために泣いてくれるということ
1年間、遠くの土地で頑張った息子が春休みに10日間だけ帰ってきた
あいにく、せっかく帰ってきてくれたのに、私の仕事は今まで以上に忙しく、家に居れる時間が少なかった
でも精一杯息子との時間を過ごしたくて、毎日一緒に食べられるために、ガトーショコラとりんごのクランブルケーキを焼いた
息子もまた、フロランタンを焼いた
私と食べるためだけに
今朝早く、息子はまた長野に行った
大学2年生として頑張るために
将来の夢を叶えるために
改札口、私の目は案の定潤んできた
でも、えっ?みつめた息子の顔が泣きそうだった
去年の春、長野に旅立つ息子は、飛行場で私を一度も振り返ることなく、ニコニコと、颯爽と喜びを胸に手荷物検査場へと消えていった
なのに1年後、息子は私と別れるのを心細く、悲しんでいる様に見えた
長野での生活がどうかある訳ではない様だった
ただ
息子が私のために泣きそうになってくれていた
私が泣く前に
逆はあっても、私がその立場になったことは、そうなかったように思う
誰かが自分のために泣いてくれると、自分の涙は引っ込んでしまうものなんだと気づいた
癒されるものなんだと気づいた
そして、その顔は忘れられないものになるんだと気づいた
あ。ついこの前、私人前で泣いたな、と思った
さようならをするのが寂しくて悲しくて
永遠の別れではないのに、悲しかった
私の中で特別だった子だった
無意識に、色んなことを教えてくれる子だった
私の何かを変えてくれた子だった
とてもピュアな子だった
とても好きな子だった
あの子は、どう感じたのだろう
ふと、そう思った
誰かが自分のために泣いてくれるということは
とてもありがたいことなのだと感じた
そしてとても
幸せなことなのだと感じた
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