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職人の技、想いを学ぶ

おはようございます。
今日も食日記書いていきます。

和菓子のコース料理を堪能し、改めて食を愛して守っていきたいと思いを馳せた体験でした。



今日の食日記

今日のエッセイ(もはやエッセイでは無いのかもしれない)は、一言では愚かまとめられるかさえ全く不透明(多分無理)な内容になるであろう。

端的に言えば人生においても痺れすぎる体験で、今でも夢の中にずーっと潜っていて、覚めるな覚めるなって叫んでいたような、現実ではなかったんじゃないか?と疑ってしまうような時間だった。


まとまりません。まとめられるほどの作力もなければ、そもそも食というものに対して向き合ってきた時間が少なすぎ、おそらく語り尽くせるほどの理解にも至っていないと思われるので、思いのままに学んだこと、そこで味わったことをつらつらと殴り書きしていこうと思う。


日本の古都奈良に訪れた。
小6の修学旅行以来訪れたことがないから、なんとなく行ってみようと、県民にとってこれとない薄っぺらい客だったわけだ。

名古屋から行く身にすれば、たいていの行き方で京都を通過してしまう(もしくは経由)のだから、正直奈良まで足が伸びることは気合がいるものなのだ(夏にかき氷激戦地奈良に乗り込もうかとは考えたことがある)。

京都からの乗り込みで、朝方11:00時ごろ、樫舎という銘菓のお店に訪れた。


それはただの興味だった。

本屋さんで奈良の観光ブックをぱらりとめくっているとき、“和菓子のコース”という、強烈なパワーワードに目が止まり、好奇心のままに即座に予約をした。
エンターテインメントととしか思えない。

お寿司のコースも行ったことがないのに、和菓子デビューするとは。自分の行動力というか度胸に自分もつくづく驚かされる。




今日のお店

朝冷えに凍え、早歩きになっていることに何回も気づいたか。まだ始まるシーンとした樫舎は寒そうだった。
そらは自分の持つ緊張感と重ね合わせたようだった。

どっしりとした重鎮のような佇まい、中の人々もきっと継ぎ続けているのだろう語りと歴史が品格となって表に現れるその店に心臓の鼓動は速くなった(やっているのか分からず店前を5分ほどうろうろし続け遅刻をした。やってしまった)。


店の中少し奥まったところに、杉の木の麗しい白さが光る、掘り炬燵式のカ
ウンターがスタンバイしていた(これから始まる生の講演会が見えるようだ)。


そして、店員6名に対して今日は僕1人。
ど真ん中に座布団が置かれ、こちらに、と一言が背筋をゾワッとさせた。

でもなんだろう、食という分野になると案外語り合えそうな(何様という感じだが)、そのくらい愛しているからこそ、自分なら向き合えるだろうという強い自信が湧いてくる。


胸を張って食らいつこうと姿勢を正した。

お茶が出され、ほっと啜ると、今日の職人の方が目の前にいらっしゃった。
このお店の代表であり、とてつもない職人であることは素人の僕にでもすぐにわかった。


よろしくお願い致します、と23の若僧よりも遥かに低い腰でご挨拶されては、面目ない。一気に取り乱した僕は相当素人にしか見えなかったろう。

が、その始まりは始まりではなかった。


1対1のこの対面。
目が合ってない時なんてない。職人の方の意思のある強く優しい目に吸い込まれるように、食い入るように目から全身を傾けて聞き入った。

序盤も何も、早1時間はその和菓子職人の講義だった。

その内容一つ一つは、本当に僕が聞いて良いのか?と一言一言にお金を払いたいほど和菓子の奥の奥、辿れば軽く1000年はタイムトラベルをしてしまうような内容だった。

散り散りになった一枚の紙を、かき集め、なんとか一つにしたいのだが、パズルのように上手くはいかない、そんな綺麗に完成はさせられない。
悔しくて、はらはらして、どんどん先に行ってしまう陸上部をどう頑張っても追いつけないバスケ部だった頃の敗北感に襲われた(鼻から勝つつもりがあるとかないとかそれ以前の問題だが)。

どうあがいても、聞いたこと知ったことをまとめきれない。


「和菓子はとても簡単だ。吸水と加熱と加糖ができれば誰だってできる」

「職人は下流で、大切なのは上流。つまり生産者さんの嘘のない努力の結晶のようなモノづくりを味にさせてもらうことが私の役割。伝統なんかじゃない」

「栗は下から焼いて、百合根は雪の中でその日を待つ。糖度をいかに高くするか。どれだけ味を高められるか。濾しには馬毛を使いたい」


これだけではない。もっともっと力があった。伝えられた。現実を何度も忘れ、夢から覚めるなと1秒ずつ刻むこの時を、もう羨ましく実感していた。

さぁ、と始まったコースのご提供。もう時刻は1時間を過ぎていた。


もう語れません。最後に感想は書きますが。

とにかく感じたかった。その時間、その風景。夢にしたくなかった。

きな粉の干菓子。
舌の味蕾に合わせた口溶けは、噛んで唾液と混ざったその時、味わいとなって溶けて沈んでいく。
ありありときな粉の広がりとお砂糖の甘さが残る。


なんとも儚いくちどけ

馬下の濾し器でふわっと初雪のように柔らかく今にも消えてしまいそうな百合根。
ほわっとしっとり優しくて。百合根らしい少し癖のある味わいがすごい爽やかで、冬の涼しさが口に残った。


どこまでもきめが細かい


椿姫。
中には紅色の案外包まれて。
今目の前で出来上がった熱すぎるはずのお餅を、お水だけで弾き上げ、包まれたその作品は、見事な桃色に生まれ変わっていた。
さらりともっちりと、甘さはきちんと。


紅白餡の重ねから生まれる淡いピンク


淹れたてのドリップコーヒーが頂けた。


メインは、最中(出来立ての出来立てで)。

さっきから火がついていたなぁ、と思っていたがほかほかの餡子が待っていた。

今すぐ召し上がってください、の一言の下、サクサクの最中に挟まれた餡子は粒餡なのに全く重たくない。
とろける軽さは無重力に近く、こっくりと余韻、そして香ばしい最中が香った。

と同時にこの夢の時間の終焉が告げられた。

何度お礼をしたか分からない。
お礼では伝えられない、1人の人生を頂けた気にさえなってしまって、職人の方のドキュメンタリーを見た。

語り尽くせない。学んだことはある。感じたこともある。

最後に一つ、これだけは言いたいこと。

職人さんが伝えてくれた。
“光が当たらない影を売れる人になる”

和菓子は上流で決まる。その味を守るためには、適正な価格、生産者がお金をきちんと得られる仕組みを作らなければならない。
日本人は本当にいいものにお金をかけなくなってしまった。それを伝えていくのが我々下流で人に伝えられる職人としての使命だと思う。

面食らった。そしてその通りだと、僕だって同じことを感じていた、と実に心にあった違和感をはっきり
と代弁して下さり、僕自身に気づかせてくださった。

僕も和菓子に限らず食の全てにそんな世界を作っていきたい。とてつもなくありがたい味方ができたと。おこがましいがそのくらい思ってしまった。

ほら、まとまらなかった。これが感じたこと考えたことの全てである。
僕は少しでもそんな人々の役に立てたらな。

そう強く思えた。

何度でもお礼を言いたい。
ありがとうございました。


美味しいひと時に、ごちそうさまでした。
では、また次回。



今日のお店:樫舎(奈良市中院町22-3)



*Instagramでは暮らしにある食をすきなだけ発信しています*
暮らしのヒントになれば、と。
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