アメリカでPI職(物理)に着任するまで


はじめに

40手前でアカデミアから民間へ転職したのだが、またまたギリギリ40手前で再度アカデミアにファカティ職で電撃復帰することになった!日本ではなくアメリカだ。🇺🇸 
今回はこのドラマみたいな出来事の経緯から説明していきたいと思う。

コトの始まり

2022年の終わりから民間転職に向けて就活を始めて内定をもらったのが2月。その時にちょうどコラボレーションミーティングがあり勤務先の研究所には多くの外国人が集まっていた。

自分の元上司のX教授もアメリカから来ていたので、挨拶も兼ねて民間で新たな道に進むことを報告するつもりだった。ただ、話はそこから思わぬ方向に進んでいくことになる。

X教授「最近、元気かい?職探しは続けているの?」
私「最近は、あまり、、いや、今日、実は話したいことがあったんだ」
X教授「ああ、そういえば、最近〇〇大学(アメリカ)の公募出てたよね!?出してみたらいいじゃん」
私「いや、あ、えーっと、、、実は民間に転職しようと思うんだ。実はすでにオファーもらってて、、、」
X教授「え?ほんと?いや、でも〇〇大学、君ならチャンスあるとおもうんだよな。とりあえず〇〇大学のY教授に話してみなよ!」
私「あ、う、うん、、」

これはとりあえず持ち帰り案件だと判断し、家に帰って妻にも相談してみることにした。妻にはこれが本当に最後だと説得したのも束の間、その公募についてよくよく調べてみるとなんと締め切りは衝撃の3週間前!!
完全にダメなやつやん。。

チャンスを掴め!

ここで普段なら変な足掻きはしないところ、なぜかこの時は一応連絡してみようと思った。今思うと諦めなかったのがよかった。とりあえずY教授にメールをしてみた。するとすぐに返信があり今すぐ話をしようと言われた。

Y教授「委員長に確認したところ、とりあえず3日待つから、履歴書と研究業績書をすぐに送ってくれと。その他の書類や推薦書 (5通)は1週間待てると。推薦書2通は少なくと3日以内に送ってくれ」

こんなメチャクチャな状況ではあったが、僅かな望みにかけるため、全力で書類の準備をした。これが初めての公募ならたった3日間で準備は不可能だが、幸い過去の公募に使った書類が一通りあった。推薦書は当時の上司やポスドク時代の上司がすぐに用意してくれることになった。

一次面接

書類提出の1週間後、突然メールが来た。どうやら書類通過したらしい!とはいえ、まだまだ先は長い。一次面接は短めでオンラインだったが、これまでのハードウェアの研究業績に関してとにかく喋り倒した。言いたいことは全部言えた。悔いはなかった。

例のY教授は今回の人事委員会のメンバーではなかったのだが、印象がよかったとのフィードバックをくれた。とくにZ教授がおしてくれてたみたいだ。Z教授は多くの巨大プロジェクトに関わってきた伝説的な教授である。

これは相当嬉しかった。まだ何も終わってないし成し遂げたわけではないのに、なぜか報われた気がして。一研究者としてこういうのは非常にありがたいし自信になる。

いざ出陣!

ちょうどマンションを買ったばかりで、引っ越したり就職の準備を進めていた頃、再び突然メールがきた。どうやら二次面接へ進めることになったようだ!家はまだバタバタしていたが、とりあえず新しい仕事が始まる前に二次面接のために現地に行くことになった。

山を一望できる楽園のビーチ

人生初上陸。海だ!最高の自然に恵まれたこの楽園にやってきたにも関わらず、今回は泳ぐことはない。みるだけだ。まさかこんな形でここに来ることになるとは思ってもみなかったわけで、本当に不思議な気持ちだった。

仮にダメだとしても、こうやってこの地に面接に来れたのは最後のいい思い出になるなあ、と勝手にアカデミア人生を振り返り、妙な気分に浸っていた。

いきなりピンチ!

面接当日、朝ランをしてシャワーを浴び、面接に行く準備は完了。バスで大学まで行く予定だったのだが、バス停についても一向にバスが来ない。バスの遅延が常態化しており、グーグルマップで見てもバスの番号が次々と変わる状況で、一体どれに乗ったらいいのかさっぱりな感じで、かなり焦った。

とりあえず、グーグルの指示に従い、バスに乗り込んだのだが、そのバスがいきなり方向転換を決め、全く予期せぬ方向へ進み出したのだ。さすがにヤバいと思い、とりあえず下車をしたのだが、もはやバスに乗るのが怖くなっていた。それならばと、Uberしようと思ったのだが、こういう時に限って、Uberが来ない。。Lyftは日本のカードの登録ができず断念。。

こんな時、自分の最終手段は「足」だ。このためにこれまで月間300キロ走り込んできたと言っても過言ではない。大学まで6キロくらいなので30分あればなんとかなるというので精神的にだいぶ救われた。

面接地獄

時間ぎりぎりでなんとか大学に到着すると、すぐに面接が始まった。アメリカのファカルティ面接はかなりの長丁場だ。学科のファカルティメンバーを一人ずつ周り、30分ずつ話していく。自分は実験が専門なのだが、理論や他分野の教授とも話をすることになっている。一通り話し終えた後には学科長やさらにその上の学部長との面談も控えている。これ以外にも自分のコロキウム(大学院生向け)やセミナー(専門向け)があったり、学生とのランチがあったり、ファカルティ陣とディナーに行ったり、施設見学があったりと、とにかく2日間みっちりとスケージュールが詰まっている。

一番びびっていたのは学生とのランチだった。若い子の喋りはめちゃくちゃ早く、スラングも結構出てきたりもするし、共通の話題も見つかりづらいことが多いため、話に苦労する可能性が高いのだ。ただ、今回はここで強運を発揮した。なんと学生さんにランニング好きが2人もいたのだ!トレーニングやレースの話で盛り上がり、なんとかこの関門を突破することができた。こんなところでこれまでの走り込みの成果がでるとは!!

セミナーやコロキウムでは、アカデミアとしての自分の最後のプレゼンかもしれないと思いながらトークをした。聴衆がいつも以上に真剣に自分の話に耳を傾けてくれている気がしてとても嬉しかった。極端な話、もう結果はどうでもいいとさえ思った。やり切った後は、本当に爽快な気分だった。

全てのスケジュールが終わった後、別の部屋に通されると、そこにはファカルティ陣が並んでおり、最後の面接がはじまった。そこで自分の意思やこれからの研究プラン、グループとうまくやっていけそうか、など根掘り葉掘り聞かれた。

委員長「グループの中でうまくやっていけそうか。自分はフィットすると思うか。」

私「日本でPhD取ったので、英語で授業やったこともないし、私にはZ教授のような素晴らしい実績もありません!でも自分はどんな状況でも環境にうまく適応し、グループにとって必要不可欠な人材になるために最善を尽くすでしょう!」

委員長「あなたは他にも面接に呼ばれていますか?呼ばれているとしたらうちに来る可能性はどのくらいありますか。」

私「実は民間への就職が決まっています。アカデミアとしての挑戦はこれが最後になります。もし縁あってオファーをいただけることになったらそれはアカデミアとして残りの人生を全うするという意味になるでしょう!」

突然の訃報

面接から一月ほど経った後、Z教授が亡くなったとの知らせがあった。最後に話したのは一次面接だったが、それ以降体調が急変し闘病の末に亡くなったということだった。そして自分がまだ選考に残っていることをこの時に知ったのだった。

元々、この公募は1人募集するということだったが、このような事情もあり急遽2人採用する可能性があるということで、気長に朗報を待ってほしいと言われた。

果報は寝て待て

会社に入ってもう半年くらい経って、面接のことなど忘れかけていた頃、突然メールが来た。オファーを出せそうだということだった。信じられない!!これはもう神による導きだとさえ思った。

中央公園にある物理の神様(朝永先生の銅像)

これまで欧米や日本のポスト合計50個近くは出してきたと思う。特に2018年ごろはアメリカでかなり応募したが、面接にさえなかなか辿り着けない日々だったことを思うと、こんなにうまくいくこともあるもんだなと不思議な気持ちになる。

妻からの惜しみないサポートに感謝しているのはもちろんだが、今回はこれまでお世話になってきた上司たちがうまく働きかけてくれたのがかなり大きいと思っている。自分がこれまでに失敗を重ねながら撒いてきた種がようやく実って収穫の時期を迎えたという部分も多少はあろうが、これも結局人脈なのだ。もしこれからアメリカでPIを目指すのであれば、日本以上に人との繋がりを大事にしてほしい。

まだ家を買ったばかりだし、家族もみんな新しい生活に慣れ始めたところで、また一から新しい生活をするのは想像するだけでもキツそうだ。

とはいえ40歳目前でこんなに大きなチャンスが与えられたっていうのは本当にありがたいし、もう前を向いて全力でやっていきたいと思う。

(続く)


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