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第21話:日本の中の社会って本当に「社会(society)」なの?

前回のおさらい

前回までは、マーケティングは科学哲学との相性が良くて、仮説設計や論理構築にマッチしているということをお話しました。その中でも使い勝手が良いのが演繹法と帰納法です。この2つはとても使い勝手が良いのですが、問題点があるのでそれを知った上で使いこなすのが応用編として最適だと思います!
さて、今日からは、社会を知る科学である社会学をお伝えしていきます。

社会(ソサイエティ)とは

社会という言葉は、ご存知の通り外来語です。1826年に青地 林宗(あおち りんそう)と言う蘭学者が初めて教団や教会派の意味で「社會」と言う言葉に翻訳されたところから始まりです。
それまでは、浮世や世間という言葉で使用されていました。
そもそも、日本には社会問概念が通用しないという事を言っている学者がいます。ソサイエティ=社会ではなく、ソサイエティ=世間と言うことが言えるのではないかと。
グローバルで通用している社会的なマーケティングではなく、日本型のマーケティングを適用する際は世間の概念を理解する必要があります。
実は、世間の概念を導入すると、これまで見えなかった社会の説明がうまくいくことが多いのです。
前回の推論のなかの「アブダクション」にあたります。

世間とは

世間はどうイメージを持たれてるでしょうか?
「世間体を気にする」とか、
「世間話する」とか、
社会より身近なイメージありますよね!

①イ:有情の生活する教会。衆生世間。ロ:有漏法の異称。
②天地の間。辺り一面。
③人の世。人生。
④社会。世の中。また、世の中の人々。
⑤世間づきあい。交際範囲。また、そのための費用。
⑥くらし向き。身代。財産。
(出典:『広辞苑』(第五版))

広辞苑の辞書的な意味を引用しても、文字面ではわかるんだけれども結局どういう意味なのかが理解できないと思います。なぜなのかというと、「多義的」であることと「身近な問題」であるということが原因なのです。

阿部謹也の「世間論」

世間論の権威である阿部謹也は世間をこう言っています。

世間とは、身内以外で、自分が仕事や出身地や出身校などを通して関わっている、互いに顔見知りの人間関係のことである。したがって世間は、一人一人にとって異なっており、世間が広い人もいれば狭い人もいる。しかしいずれにしても日本人の交際範囲が世間を出ることは稀である。
(出典:阿部謹也『西洋中世の愛と人格――「世間」論序説』朝日新聞社)

また、もう一つ

世間とは、身内以外で、自分が仕事や出身地や出身校などを通して関わっている、互いに顔見知りの人間関係のことである。したがって世間は、一人一人にとって異なっており、世間が広い人もいれば狭い人もいる。しかしいずれにしても日本人の交際範囲が世間を出ることは稀である。
(出典:阿部謹也『西洋中世の愛と人格――「世間」論序説』朝日新聞社)

要するに、自分の出身地(ルーツ)で関わっている人間関係であるわけです。それは家族とは違うし、他人とも違うなんとも言えない関係であるということも言えると思います。
特に田舎であればあるほどこの現象が顕著なのではないでしょうか?

社会と世間の違い


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これらの違いがあるようです。

まとめると、

・日本には(狭義の)社会は存在しない。
・社会に変わる言葉として「世間」と言う言葉から認識するのが良い。
・マーケティングを考えるにおいて、社会から「世間」と言う概念を導入すると、思考しやすくなる。

「世間」と言う概念を理解することでどんどん日本の中のもやもやがクリアになります。

今も世間はあるの?

今は、ネットも発達していてその範囲は広くなっているし、出身地や学校や地元などそういうのを取っ払って、世間的なものが減ったのでは?と思われると思いますが、私は違うと思います。

例えば、会社で言うと、強制ではないが見えない圧力で参加しないといけない飲み会文化や、何故か辞めづらい職場環境などからも言えるのではないでしょうか?「君がやめたら残った人たちはどうなるの?」これが世間たる所以で、「個人と社会の境目がほとんど存在しない人間関係」であるということが言えます。

まとめ

社会という言葉が輸入されて200年も経っていない日本で、社会という言葉に変わるのは世間なのではないかということのお話をしてきました。日本独特の空気感が世間です。
これを理解することができればより日本においてのマーケティングが活用することが出来るのではないかと考えています。アメリカ的なマーケティングの方法論をそのまま輸入して適応できるかといえばそうではないと思います。

次回からは世間を活用したマーケティングをご紹介していきたいと思います。

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