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「読書について」で本当の「読む」を知る

先日、彼女から読むといいよ。と手渡された本があった。
Twitterでも書いたけど、すごく好きな本だった。

「はじめに」の文章なんて、心を打たれた。

本当に好きになったので、若松さんが行なっている公開講座に伺った。

公開講座の内容は、まだ内容を整理し切れていないので、後ほど記事にまとめたいと思う。
ショーペンハウアーの本の内容、若松さんの解説に感銘を受け、
「こんな講座を受けたかった。」と心から思った。

ショーペンハウアーの世界をまだ受容し切れていないと思うが、一つ心に残った文章があるので、抜粋したい。

「凡庸な」者
凡庸な者と凡庸な者とは、いったいなぜこのようにたがいに似ているのか。いったい彼らすベて同じ一つの型で鋳られたのか。彼らの中のだれもが、同じような機会に同じことを思いつくではないか。違ったことは何一つ思いつかないではないか。そのうえ、だれも彼もが言い合わせたように卑しい私的なことをたくらんでいる。しかもこのような連中の下らぬ雑書を読む愚昧な読者がいるのである。彼らの新刊書でありさえすれば飛びつき、偉大なる精神から生まれた古典は、書架に死蔵しておく。

ショウペンハウエル『読書について 他二篇』(岩波書店、1983年)


また、講座の中で【心に残った文章についての文章を書き、自分の中で講座を通じて、変化した「読む」について書いてみましょう。】という課題があった。(上記の文章について書いた)
そこで書いた文章も記録のため、記載しておきます。

「凡庸な」者を読んで
今はSNSが流行し、誰もが発信できるようになった。発信したことにより、インフルエンサーになる人も増えた。今ではSNSはインフルエンサーだらけだ。何が優れているわけでもないが、昔と違って、今は世界が多様化した。そのため、目立つための軸が無数に存在し、その多様化した軸の分だけインフルエンサーがたくさんいる。
当たり前だが、インフルエンサーは一般の人に影響をもたらす。その結果、インフルエンサーが発信するモノをありがたがって、同じような経験をしたと発信する。それが目に見えるようになったことで、流行と呼ばれるようになる。その流行が新たなインフルエンサーを呼び、より大きな流れとなり、同じサイクルを回すようになる。その結果、凡庸な者が凡庸なモノを真似るようになった。だからこそ、凡庸な者同士は似るし、同じような考えが浮かばない。何かを自分の中に取り入れる「読む」を軽視した結果だ。消化を無視した食事は、身体を不健康にする。同様に消化を無視した「読む」は、精神の健康を損ねるのだ。検閲を挟まないことは世界に「広さ」をもたらすと同時に「浅さ」も生み出した。
この講座を通して、今までの読書は「情報を蓄える」だったが、今は「内容を消化する」に変化した。


学びが多く、今受講できてよかったと思う講座だった。
読書とは何なのかだけではなく、古典の重要性を理解でき、講座の学びが大きな財産になったと感じる。

この本に出会えたこともよかった。本を勧めてくれた彼女にもお礼を言いたい。
本当にありがとうございました。

最後に「読書について」の指針になりそうな文章を引用して終わりにする。

読み終えたことを一切忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。その当人が食べたものによって肉体的に生き、読んだものによって精神的に生き、今の自分となったことは事実である。

ショウペンハウエル『読書について 他二篇』(岩波書店、1983年)

下記に講座のリンク貼るので、興味ある方はぜひ。


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