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日本における女性の社会的活躍推進のヒントとなるかもしれない、ある混声合唱部の強豪の復活についての話

今回は、ものすごく個人的な思い入れのある話なんですが、ジャンル的に興味がない人にとっては少しとっつきづらいかもしれないです。

ただ、結構「似たような体験」はあちこちにあると思うし、「その体験」を掘り起こしていくことは今後の日本がちゃんと前に進んでいくために重要だと思っているので、最初は「興味ないな」と思っても少し我慢して読んでみてほしいんですよね。

単純にいうと、私が高校時代に所属していた高校の合唱部があって、そこは「全国大会に出ない年がない」ぐらいの強豪だったんですよね。全国大会でも「合唱をやっている人なら名前を知っている高校」ぐらいの感じだった。

でも、自分が所属していた年の直後ぐらいから急激に弱体化して、一時は誰も知らない無名校になっていたんですけど。

混声合唱団だったんですが、男が入らなくなって女声になってしまったのも大きい。

それが!

ここ5年ぐらい、女声では全国に出るようになってて、なんと今年、22年ぶりの混声で全国大会に出たんですよ。もう同窓会LINEグループとかフェイスブックは大騒ぎになっていて(笑)

なんで大騒ぎかというと、「混声合唱団が一度女声になってしまうとなかなか混声に戻れない」っていうのは「あるある」なんですよね。

なんせ女声は全国レベルでやってるのに、上の世代に男がいない状況から男子部員を集めていって、コンクールで戦えるレベルに育てるって考えると大変さが想像できると思います。

このへん、同じ音楽系部活でもブラバンやオーケストラとは全然違う合唱だけの難しさがあったりする。だから「ジェンダー」的な問題が凄く根本的な課題になりやすい。

今回の全国大会はウェブ配信されていた(時代を感じました・・・現役の頃はチケットぴあに全部員で電話する争奪戦があったのに 笑)んで、ツイッターを眺めながら見てたんですけど、そしたら「おお!神戸が混声で全国に戻ってきてる!」って騒いでる年上の世代のツイートもチラホラ見かけました。

「合唱の全国大会」なんて世間的知名度がめっちゃ小さいマニアックな話題ですけど、この「神戸高校合唱部の衰退と復活の20年」には、昨今喧しい「日本における女性の社会的活躍問題」というような話とかなりリンクする示唆があると思うので。

ある種の象徴的な事件として著書ではなんどか触れたことがあるんですが、今回の「大復活」の経緯も含めるとまた新しい示唆が詰まっていると思うので、今回はそれについて書きます。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「体育会系」は日本の諸悪の根源だろうか?

まずは、「合唱の全国大会」というあまりにマニアックな話題の細部に入る前に、「この話題」が持っている一般的な「意味」について考察しておきたいんですが。

この記事は、以下のリンク先にあるファインダーズというウェブメディアにおけるこないだの衆議院総選挙結果に関する考察記事との連動企画でもあるんですね。

今回の選挙結果について、「体育会系っぽい人たちに牛耳られる日本」みたいな恨み言を言っている人が日本のネットに結構いてですね。

こういうツイート↑(このツイート自体には書いてないですがツリーの中で隠岐さや香さんが”体育会系”という言葉を出している)に対していろんな人が、「そういうバカな猿どもに牛耳られる日本ってもう衰退するしかないよね(をある程度上品な言い方で)」的なツイートで賛同してるのを見かけたというか。

で!個人的にはその気持ちはわからんでもない(笑)

私は中学生ぐらいまで本当に「部活」的なものが嫌いで、それどころか「敬語」という仕組みが日本にはあるからそれが知性的な議論を不可能にさせている諸悪の根源なのだ風の(笑)ツイッターでたまに見る「”知的な個人主義者(笑)”による日本社会への怨念」の塊みたいな人物だったんですけど。

でも高校の時なんとなく流れで「毎年全国大会に出るような合唱部」に入って、で音楽は親がピアノとリトミックの先生なんでそれなりに好きだし、指揮者になって結構真剣にやってたんですけど・・・そしたら、「体育会系のアレコレの風習」っていうのがほんと最初はイヤでイヤで。

ただ3年間それなりに真剣にやったところでは、「ああいうの」なしに集団をきっちりまとめ上げるのって無理だな・・・って思ったんですよね。

なんせ、

・別に音楽的素養があるわけでもない普通の生徒を集めて混声合唱をやるわけで!

・特に男は最初から楽譜を読める人の方が珍しいぐらいなのに!

・しかも同じ地区には「高校の音楽科の生徒を集めて出場してくる高校」とかもあるのにそれに毎年打ち勝って!

・しかも生徒は毎年3分の1が完全に入れ替わってしまってゼロからやり直しになるのに!

・・・という並み居る悪条件を超えて毎年全国に出続けるって超凄いことなんですよね。

「普通の人」を「全国レベル」に引き上げる強烈な知恵が潜んでいるというか。

その体験の中で、最初は大嫌いだった「体育会系のモードで生きている人たち」が、実は敵じゃない、ちゃんと敬意を払って協力しあえれば凄い頼もしい味方なんだってことを学んだわけです。

今回の選挙で維新が強かった理由について連動記事では考察してるんですが、結局維新は維新なりにテクノクラート的な知性の部分と、「大阪人の現場レベルの気持ち」を分断させずに結びつけようとする使命感が凄いあるんですよね。そこは尊敬できるなといつも思っていて。

維新が伸びていることが嫌な、リベラル派野党支持者にしろ自民支持者にしろ、自分たちなりにこの「知性と現場の異質を超えた連携」をいかに作るかっていうのは課題として今後真剣に取り組むべきだと思います。

「体育会系」を嫌うんじゃなくて、「彼らは自分たちにはない現場レベルの社会をまとめあげるパワーがあるんだな」という「敬意」を払った上で、「自分たちの理想」を現場で実現してくれるパートナーとして扱っていくことが必要で

これは↑立民の選挙ボランティアに参加した人の匿名の手記ですが、立民が選挙ボランティアの10人程度すらちゃんと「組織としてまとめる」気がないことが批判されています。(私の直接の友人で2017年の選挙で立民ボランティアをした人がいるんですが、同じ事を言っていました)

「そういう”集団をまとめる”とかが苦手な人」(僕も苦手ですが)は、「得意な人」を見つけてきてパートナーシップを結んでいかないと、「体育会系のバカどもって嫌だよねえ」って内輪で盛り上がるだけでいいのかどうか、真剣に考えないと。

最近あちこちで述べている「私のクライアント企業で平均年収を150万円あげられた例」も、この高校時代の部活の体験があるから、「古い社会」を敵視せずに「一緒につれていく」ことを真剣に考えたからできてるわけですよね。

僕自身は「個人主義的すぎて集団と向き合うのは苦手なタイプ」でも、「そういうのがある程度得意で、かつ僕みたいな個人主義者の話も理解できるタイプの経営者」と組んで、彼(彼女)らを通じて「現場レベルの紐帯」と影響しあえるようになっていけば、「理想」を「現場」レベルまで実現していける。

日本社会のほんの上澄み的な世界以外の、たとえば地方の中小企業でもそうやってまともな給料を出すとか有給休暇を整備するとかセクハラ・パワハラをやめましょうとか、出産育児休暇を整備しましょうとか女性も活躍しやすい体制を作りましょうとかは、「そういう細部の仕組みを現場レベルで整えてくれる人」と組まないと実現できないわけで。

ジェンダー論的に「日本社会を全否定」していれば「実働部隊」が勝手に集まってくれるわけがない。「自分たちはそういう細部の事を丁寧にやるのは苦手だな」と思うのなら、「そういうのが得意な人たち」に敬意を払ってパートナーシップを作っていかないとね。

結局「そこ」をないがしろにして「自分たち以外の奴らってバカばっかりだよね」みたいな事を言って内輪で盛り上がっているだけでは・・・

そういう気分のまま、「現場レベルの共同体」をバカにしたモードで無理やり社会を一方的に動かしてしまった結果、アメリカでは数千万人のトランプ派が「意識高い系のいうことの全部逆をやってやる!」てなってしまっているわけで。

今後の日本はちゃんと「同じ場所に繋ぎ止めた上で一歩ずつ変えていく」ことによって、欧米で生まれている分断が深刻になるような世界じゃない「ウサギと亀の話の亀のように」変革を起こしていける国になると思っています。

そういうビジョンについて、今度出る本でまとめる予定なんですが、序文が無料公開されてるのでぜひどうぞ↓。

(後日追記 もう本が出ているので以下をどうぞ↓)

日本人のための議論と対話の教科書

書影

以下で試し読みができます。

https://note.com/keizokuramoto/n/nd42e9c12e489


2●「バカバカしい風習の背後にあるものの潜在的合理性」という話

で!ここからもう少し「部活」の話を深く考えてみたいんですが。

あとから考えてみると、「関西大会を突破したあと会場横の公園で胴上げされたりする体験」とかしてるうちに、やっと最後の方になって「(男女問わず)体育会系気質の人たち」って尊重しておくといいことあるんだな・・・とだんだん理解してきたって感じだったんですが、現役時代はとにかく「こんな古臭いシステムはぶっ壊してやる」と思ってもいてですね。

とにかく「バカバカしい伝統」に見えるものは全部廃止するぞ!という謎の熱意を持って、次々といろんな事を変えてった記憶があるんですよ。

で、その「バカバカしい伝統」っていうもののうちに、今風にいうと「ジェンダー的問題」ってたくさんあったような気がするんですよね。

そもそも、ピアノを習ってたとかの音楽的素養がある人数は女の子の方が多いのに、なんとなく指揮者と部長は男がやる感じになっていたりね(自分の一個上ぐらいから女性指揮者や女性部長がチラホラ出てくるようになった)。

あとなんか、自分より上の世代の風習では、なんか部内のお楽しみ恒例イベントみたいなところで、女子はおにぎりを用意してきて、男はなんだったか忘れましたけど別のしごとが割り振られていて、男女で凄いあからさまな役割の違いがあったりして。そういうのがいっぱいあったんですよね。

そういうのが高校時代の自分は凄い嫌だったんで、僕の代が3年になった時に全部やめたんですよね。

そしたら、結構僕らの代以降男子部員が急激に減っちゃって、何年かあとにはもう完全に女声合唱になっちゃったんですよね。

で、こういうの、「古いジェンダー規範的な風習」みたいなのを変えていこうってのは、もう今の時代特に誰も反対しないぐらいの話になってるじゃないですか。

だから変えていくのはいいんですけど、同時に「どんなアホらしく見える風習にもそれなりに”機能”ってのがあったんだな」っていう理解が必要なんですよね。

「その機能」を「別の形」で代替する気があるなら「変える」のは問題ないが、単に「古い時代の風習だから」とバカにして変えるだけでは、いずれしっぺ返しを受けたって知らないぞ・・・というのが高校時代の自分が凄い「痛い目」を見て学んだことという感じで。

アメリカで数千万人のトランプ派が「意識高い系のいうことには絶対全力で反対してやる」ってなってるのも、巨視的に人類社会全体を見れば「欧米的理想を全拒否にする」中国やアフガンといった国が増えているのも、その「無理解ゆえのしっぺ返し」だと考えられると思います。

3●「男女の違いなどない」と強弁することが女性の社会進出に本当に役立っているのか考え直すべき

で、この話をもう少し深堀りすると、「女性の社会進出」を進めていくこと自体が「目的」なんであって、「男女に違いなどないのだという神話」を押し売りすることが目的じゃないはずだってことなんですよね。

むしろ「男女って結構違う部分あるな」というのを否定せずに、それぞれなりの配慮を現場的に積みあげていくプロセスを大事にすることをそろそろ考えるべき時に来ていると思います。

部活の話に戻すと、ブラバンやオケはパート分けと性別が一緒じゃないんでまた違うんですけど、混声合唱団は「パート=性別」なんで、結構この「ジェンダー的課題」がものすごく直撃的な影響を持っているんですよね。

で、指揮者はその”間”に入ってるんで、かなり色々な難しい問題と向き合う必要があるというか。

怖い怖いソプラノパートリーダーから「男声ここができてない!ちゃんとしろよ!」って毎日反省会で言われつつ、それをうまく男声パートに伝えて変化を促して変えていくのも役割だったりして。

個人的に思うのは、「思春期の女の子をまとめるやり方」と「思春期の男子どもをまとめるやり方」っていうのは、それぞれ適したやり方があるんだな・・・ってことです。

といってもこれは、別に「男を特別扱いしろ」という話ではなく「相手の性質によってやり方を変えるべき」という当たり前の話をしているだけなんですが。

もちろん女子の集団には女子の集団の難しさがあると思うんですが、そっちにもそっちで「それに適したやり方」があるという単純な話だと思うんですね。

で、今の「ジェンダー議論」は、そもそもそういう「違い」こそが社会的な分業意識によって女性を抑圧してきた蓄積によって「つくられたもの」でしかないのだ!みたいな神学論争を延々やっていさえすれば社会が前進すると思ってるところがあるんですが。

まあその神学論争の結論はさておき(それでも性差などというものはすべて全く無根拠なものなのだという極論は最終的に無理があるように思いますが)、重要なのは

「現時点の社会で生きている男女が平均的にこうなっているという実像」

っていうのは現実にあるので、「それ」を無視せずちゃんと配慮していくことは、「リベラル派のアジェンダ」を大都会の学歴に守られた特権階級の世界以外にも広げていくには大事なことですよね。

で、すくなくとも「現段階の社会で普通にそこらへんにいる男女」に関して言えば、「女の子をまとめるやり方」で同じように「男子の集団」をまとめようとすると、ちょっとギチギチにやりすぎて男が参加してこなくなったりするんですよね。

「個人主義的すぎる」当時の自分はむしろそういう時に女子側の言い分に共感してた部分もあったんですが、ただ「男子サイドの論理」ってのは確実にあって。

「経営」的にいうとどれくらいマイクロマネジメントするか?みたいなテーマだと思うんですが、「他人に口出しされたくないタイプ」が多い男子の集団を統制的に動かそうとしても難しくて、「それぞれのプライド」を適切に把握しながら、ちょっとずつ一つに束ねていくみたいなことが必要なんですよ。

「男子の集団」は、それに適した扱い方をすると、凄い不真面目なように見えてコンクールに向けて強烈に目の色が変わってきたりして、最後の方急激に「仕上がって来たなあ!」みたいになったりする。

その時に出てくる「声の感じ」ってほんと感動的なんですよね。

漫画とかドラマとかで、「敵」だった存在が色々あって最終的に仲間になって、すごく決定的な場面で立場を超えた連携をしてくれる・・・っていうシーンの良さってあると思いますけど、声聞いただけで「そういう感じ」を感じるというか。(めっちゃ余談なんですが、いわゆる”腐女子”の人たちが”良い”と感じるのはこういう関係性を社会の中で取り戻したいという本能なんじゃないかと感じる時があります)

「個人主義者の自分の想定」を超えるような勢いが、しかもこちらが指揮で指示したタイミングや呼吸の意図を本能的にものすごく的確かつ全身的に理解してくれた感じで「ドーン」って帰ってくるのは、僕自身の人生全体の世界観を変えさせるぐらいの体験があったというか。

「単純な和音のハーモニー」的な部分だけでも、そういう「男の側の個人的なエゴを封殺せずに連動させた」時のトーンって凄い感動的で、自分の人生の中で、「個人主義者タイプの論理だけで社会を動かそうとしてもダメなんだな」と痛烈に教えてくれた感じがしてるというか。

別に男の側だけにそういうものがあるわけじゃないと思うんで、だから要するに「そういう細部の人間関係の微調整をしっかりと時間をかけてやる現場的配慮」ってのが「一見バカバカしいように見える伝統的な文化」の中に含まれているので、それが時代に合わないと変えるなら、「新しいやり方」で「同じ課題」に向き合わないといけないってことなんですよ。

実際、「高校時代のテストの成績」的な基準だけで判断すると女性の方が点数取ることが多いので、それだけで社会のエリートを完全に選別するとアメリカなんかでは男子学生が学業からドロップアウトして格差が広がっていることが問題になりつつあるんですよね。

こういうのも、「男女に違いなどないのだ」みたいな「神話」を無理やり押し付ける無理が出ている感じで、「それぞれに合ったケアが必要ですよね」という転換は徐々に語られつつあると思います。

もちろん、「個人の側から見たとき」に、「男なんだからこうしろ」とか「女なんだからこうしろ」という規範を押し付けられるのは良くないと思うんですよ。

ツイッターとかで、「まわりのバカどもから男なら(女なら)こうしろって言われたけど、俺はそんなのバカバカしいと思ってガツンと言ってやったね!(喝采)」みたいなのがいつも凄いバズってますけど、そりゃそういうのはどんどん好きにしたらいいと思うんですよね。

でも「そういう議論」だけでやると、「アメリカ型の個人主義社会」にフィットするほんの一部の人間以外の効力感を無駄に奪うことになるんで、余計にバックラッシュを引き出してしまうメカニズムもあるように思うんですね。

「この世代の男はこうなりがち」「この世代の女はこうなりがち」みたいなのを、ある程度平均的に見て「うまく良い方向に向かわせる知恵」みたいなのは、別に否定する必要は全然ないし、むしろそういうのを丁寧にやっていく事によってのみ、「強烈なバックラッシュに怯えなくても済む女性活躍とかその他の意識高い系のアジェンダの実現」は可能になると思っています。

4●神戸高校合唱部のその後

結局、女声合唱になってからは、県大会も突破できない年もあったりして、凋落の一途だったんですが、「めっちゃ強かった頃の合唱部OG」の女性が顧問の先生になって、すごい熱意で混声に戻そう戻そう・・・とされたんで、今の復活劇があるんですよね。

全国出場を決めたローカル新聞の記事が同窓会LINEグループでシェアされてて読んだんですが、今は指揮者さんも部長さんも女の子の名前で、先生も女性だし、

一応女声では強豪になった部活が、その「強豪の女子部員たち」のリードでちょっとずつ男子部員を増やして全国に混声でいけるようになった

的な感動的なストーリーが遠目にも感じられます。

なにしろ顧問の先生自体が「混声で強かった頃の神戸高校合唱部」に思い入れが凄いあって、ある意味それに人生賭けてるぐらいの人なんで、「女性側がリードしつつ、男子部員の居場所をちゃんと作れる知恵も醸成されている」ところがあるんじゃないかと思います。

こないだ自民党総裁選で「最保守層」が高市早苗さんを凄いプッシュしてて、で、僕はその流れは結構いいなと思っていたんですが、というのは、今の時代の「改革派」の人は人間社会のこういう深いところにある「事情」について無理解すぎるんじゃないかと感じてるんですよね。だからこういう「最右派の装い」の中で実際に女性が活躍していくことがまずは大事なんじゃないかと思っていて。

高市さんへの「最右翼層」の熱烈な支持を見ても、ちゃんと「保守派側の価値観を尊重してもらえる」という信頼感があれば、女性が活躍すること単体で見れば日本社会は相当に歓迎される可能性を持ってると思うんですね。

それに、今回の選挙結果を見ても、「高齢の男性が牛耳る社会」に対する反発心とかも広いコンセンサスとなっていると言っていいはず。

ただ今の時代「日本社会の変化を求める層」が、エコやジェンダー的な「進歩派的改革派」にしろ、維新を支持するような「経済的改革派」にしろ、「日本社会のなりたち」みたいなローカル側の事情についてこれっぽっちも理解する気がなくて、単に「なんで欧米みたいにならないの?」みたいなことしか言わないから紛糾するんですよね。

「経済的改革」にしろ「進歩派的改革」にしろ、それを先行してやりまくった国では強烈な社会の分断が起きているわけで、それを「完全無欠の従うべき理想」みたいに持ってくる発想自体が既に時代遅れ感があるんですよ。

「ちゃんとそれぞれの社会の事情に合わせてきっちりローカライズする気がありますよ」という姿勢が揺るぎないものになればなるほど、「保守派」側が防衛的事情から高圧的になる問題も緩和されていくはず。

アメリカがあれだけ「分断」されてもやっていけてるのは世界一の強国だからであって、ソレ以外の国でも無邪気に「同じこと」をやれと言われても困りますよね・・・という課題と今の我々はちゃんと向き合うべきだと思います。

つまり、日本における女性の社会進出・・・を考える時に、「変化を求める側」の人が、まさに高校時代の僕のように、

「日本がアメリカ型の格差社会に陥らないように土俵際でなんとか維持している何か」すら崩壊させようとしてしまう

…から、強烈な反発を受けてどちらにも進めなくなっているんだという実感が自分としては凄いあるんですよね。

神戸高校合唱部の復活の流れを見ていても、「お互いを尊重する新しい価値観の共有軸」さえできていれば、女性が活躍し女性がリードすること自体はむしろ日本社会全体として「うまくハマる」構造はかならずある。

要は「描くビジョン」が単なる欧米の受け売りでしかないし、「それぞれの個別性」と向き合ったものが全然ないので、「女性の活躍」自体もシャットアウトされているのではないでしょうか。

そういう「共有軸」が醸成されさえすれば、あとは細かい配慮を無数に積んでいくプロセスは、「知的な個人主義者」がいちいち細部まで設計しなくても「勝手にやってもらえる」ことが「体育会系的な部分を信頼して尊重する」ことの価値なんですよね。

もうほんと「こういう連携」↑を人生の中で一度体験すると、今まで細部の細部まで自分だけで考えて動かさないといけないと思っていたのがバカバカしくなるぐらいの「嬉しい連携」があって、「人間社会ってかくあるべきなんだなあ」という気持ちになれますよ(笑)

私のクライアントの経営者の中には上記の例以外にも地方企業なりに女性の登用に積極的な人も多いですが

・社員食堂に女性用のメニューがない(ドカ食い的な丼ものとか脂っこいメニューばかりだったり)とか、トイレの数とかいった細かい部分で、女性社員は”自分はここに呼ばれてない存在”だという孤立感を感じてしまいがち

とか、

・「営業事務」でなく「マーケティングマネージャー」という職種名にすると女性が来やすい。「やってもらうこと」は同じだし、実際それだけのやりがいのある仕事を用意しているが、女性側が求める「キラキラ感」みたいなのをある程度演出することも重要

・・・みたいな非常に現場感のある事を言っていて、「女性の登用」と「その会社の強み」を両立させるための細かい配慮はそれ特有にたくさん積み上げる必要があるんですよね。

もちろん、そういう取り組みが男性社員から見て「えこひいき」に見えないようにする配慮とか、「男女ともに自分たちの会社の仲間」的な機運をうまく醸成していくことが重要なのはいうまでもありません。

日本における「ジェンダー活動家」というのは、こういう細部の積み上げを結構バカにしがちというか、本来敬意を持って関係性を作っていけば自分たちの理想と共鳴して「そういう細かい配慮をしてくれる主体」まで一緒くたに「敵」だと思って攻撃しがちなのが良くないと思うんですね。

「アメリカじゃできてるのに日本じゃできないなんて!」って思うかもしれないけど、アメリカってのはそこを強引に押し切ったから強烈な分断が生まれてあれはあれで大問題になってるわけでしょう。

・「現場レベルの細部に弱い自分たちの苦手分野を直視する」

・「体育会系を敵視しないで、”現場レベルの細部を動かせるパートナー”として対等に尊重する」

そういうあたりを真剣に考えることで、日本は「ジェンダーその他の進歩派的改革」でも、「経済関係における改革」でも、どちらでも、

「過去10年の無邪気な”改革”の世界的な嵐」からは距離を置いていたからこそできる、「ちゃんと”みんなを連れて行く”」型の「ウサギと亀の亀」的な改革

を実現できる国であると思っています。

さっきも貼りましたけど、そういう本を今度出すんで、無料公開されている序文を読んでいってくれたらと思っています。

今回記事の無料部分はここまでです。

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここから先はちょっと「日本人にとって部活とはなんなのか」という大きなテーマを考えてみたいんですよね。

僕も高校時代にたまたまの縁で「部活」にハマってなければ「部活」自体が大嫌いというか憎悪していた人間に育っていたことは疑いなくて、個人主義者が多いツイッターなんかでは「部活」文化自体を否定したいお気持ち的なツイートは結構バズってたりするんですけど。

一方で、例えば中国や韓国ではこういう日本的な意味での「部活」はほとんどないらしく、一部の「職業的に追求する人」以外はとにかく中高生ぐらいから夜中まで勉強ばかりしていて、そのへんが中韓のオタクさんから見て日本アニメに出てくる「部活という文化」が結構羨ましい存在だという話も聞いたりする。

そんな感じで、いろんな意味で「実に日本」を象徴しているのが「部活」だなあ、という話はある。

特に「部活的なアマチュアリズム」的なのと、「グローバル資本主義の最先端競争におけるアカデミックな専門主義」って食い合わせ良くない部分があるからね。

だからいっそう「部活なんて時代遅れな風習を廃止したい」みたいな気持ちを募らせる人々が一方でいる反面、「部活こそが学校の楽しみ」どころか「人生の一大問題」ぐらいに思っているカルチャーは政治的な左右を問わず日本人の根っこのところにしっかりと位置を占めていたりする。

面白いのは、僕が高校の部活で「改革!」的なことをやっていた当時、僕の一個下の学年から男声が凄い減ってたんですけど、女声にはその後音大の声楽科に行った子が何人も入ってきてて、

「集団の強み」的なものが減ったら、逆に「アカデミックな専門家」の居場所ができた

的な変化として凄い印象的だったんですよね。

これって、何も考えずに自然にまかせていると結構かんたんにこういう「片方を取ったら片方を失う」トレードオフの関係になりがちで。

だから、今の日本でも「知性派」は、アメリカじゃ徹底的に「排除」(した結果数千万人のトランプ派として大問題になってるんですが)することができた「アカデミックな専門性至上主義についてこれなかった存在」を、もっと徹底的に無視して「自分たちだけの楽園」を作りたいというエネルギーが渦巻いているんですよね。

一方で、この記事↓の後半で書いたような「日本の製造業の強み」みたいなのは、「部活的な紐帯」のパワーで維持されているのは間違いなかったりする。

だからこそ、「日本側の強み」を崩壊させるような形で「アカデミックな専門主義」だけを押し込もうとすると押し合いへし合いになってどこにも進めなくなるんですよね。

だから、もちろん日本社会はもっと「アカデミックな専門性」を重視して社会の中で活かせるようになるべきだという事は明らかなんですが、結局そのプロセスが、「ソレ以外」を完全に蔑視し、排除するような情勢にならないやり方を自前で考えることが必要な段階に来ているはずなんですよ。

そういう課題はどうすれば「両取り」に解決していけるのか・・・について考えていることを以下では書きます。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。また、結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者はお読みいただけます。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

さらに、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。(マガジン購読者はこれも一冊まるごとお読みいただけます)

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