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部下の性格に合わせて伝え方やフォローを考える

部下の性格に合わせて、伝え方やフォローを変えないといけない。仮に厳しい評価をするにしても、その性格を考えたうえで伝えたりフォローしないと、大変なこととなる。
織田信長と明智光秀という上司と部下を考えると、つくづくそのように思うのです。
 
明智光秀が織田信長を殺害した「本能寺の変」について、明智光秀が変を起こした動機、理由はミステリーで、恐らく永遠の謎であり続けるでしょう。むしろ、永遠の謎であることがこのミステリーの楽しい(信長様には不謹慎ですが)ところで、ここに書くことも私の勝手な想像に過ぎません。あらかじめ。
 
本能寺の変が発生する天正10年の前年、つまり天正9年くらいまでは明智光秀は織田家のなかでも上り調子で、当時最も重要だった畿内(近畿地方)を担当することで、中国地方を担当していた羽柴(豊臣)秀吉に並ぶ二本柱でした。
また、時の正親町(おおぎまち)天皇の前で馬廻り(軍事パレード)を信長が主催するにあたり、明智光秀が主担当を務めたことは、朝廷を敬う光秀にとって誇らしかっただけでなく、「自分が織田家のなかで一番である」と思わせるに十分なものでした。この時が光秀にとって最高潮だったでしょう。
 
しかし、翌年の天正10年に入ると、信長の光秀に対する扱いが軽くなりはじめます。また、光秀にとっても「自分は軽く扱われているのでは」と思うようなシーンが増えたのです。
まず、3月に起こった甲斐の武田攻めです。ここで活躍の機会を与えられると思っていた光秀ですが、信長の護衛のような役回りをさせられ、ライバルの滝川一益が活躍する一方で、なんら手柄を立てることができませんでした。
次に、それまで光秀が窓口となっていた四国・土佐の長曾我部元親に対して、信長が討伐する方針を決めたことでした。光秀の面目がつぶされたことになります。
極めつけは、ライバルである秀吉の配下に入り、秀吉の中国攻めを支援するように信長に命じられたことでした。長いこと光秀と秀吉はライバルと考えられていただけに、これは屈辱でしたでしょう。
 
ただ、こうしたことが続いたことだけで「本能寺の変」が生じたわけではないのでは、と私は考えています。現代でもそうですが、このような不本意な状況が続いても、あまり深く受け止めずにやりすごしたり、もしくは厳しい状態は受け止めつつ、明るく前向きに取り組もうとすることもあります。
実際、秀吉も信長の不興を買い、切腹させられそうになったこともありますが、派手に明るく振舞うことで、信長の不興をやわらげ、許されたこともあります。
 
しかし、光秀はそんなやり過ごしたり、明るく前向きに取り組めるようなことができる人ではなかったのです。様々な資料が伝える光秀という人は、大変「几帳面」で、大変「真面目」な人でした。
そういう人にとって、信長から次々と軽く扱われると、その直前まで重く用いられていただけに余計、心に深く傷ついたのでは、と想像するのです。また、信長がそうした光秀の性格を踏まえて伝えたり、フォローができたのならよかったのでしょうが、信長とは「人間とはタフでマッチョであるべきである」と考えているような人なので、光秀のそんな深く心を傷つけているとは気づかなかったのではないでしょうか。
 
私は、「本能寺の変」とは極めて衝動的に起こったもので、計画性はなかったと考えています。いくら謀反は秘密裡に進めないといけないといっても、光秀が重臣たちに決意を伝えたのも直前すぎます。恐らく、斎藤利光などの重臣たちも、光秀が衝動的に謀反しようとしていることは知りつつ、一度謀反を決心した以上、いずれ信長から滅ぼされると観念し、光秀とともに信長を殺害したのでしょう。
 
恐らく、信長の光秀に対する評価が厳しくなっていたのは事実なのでしょう。そうだったとしても、光秀のプライドが傷つかないような伝え方やフォローをしていたら、「本能寺の変」は生じなかったかもしれません。とはいえ、信長がそこまで気を遣うようなリーダーであったなら天下統一は進められなかったでしょうから、リーダーのあり方とはつくづく難しいものです。

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