こういうのをファミリーと言うんだな
こんばんは!
ケミオです。
昨日までの3連休、遠く離れた父の実家に行ってきました。
夜行バスで寝て起きて、ちょうどいいくらいの距離です。
久々の夜行バスではあまり眠れず寝不足だった上、着いた後の宿題と親族との交流の連続で、noteの更新もストップしてしまいました。
とはいえ、行って良かったです。
子どもの頃に私をかわいがってくれた祖父母は他界してしまっているのですが、たまに行けば暖かく迎えてくれた父の実家近くに住む親族は、昔と変わらず。
年齢の近いいとこ夫婦とも、変わらず楽しい時間を共有できました。
その子どもも増えていて、ワイワイガチャガチャ。
こういうのをファミリーと言うんだなと思いました。
一方で、その子らと接している時に、自分の持つハンディキャップも強く実感した次第でした。
中学一年生の、いとこの子ども(女の子)がいました。
その子がリクエストに応じて、どんどん絵を書いて見せてくれるんです。
私は同じくらいの時、絵とは限らずなんでも、自分が取り組んでいることを家族や親族には見せたくありませんでした。
私は何かにつけて母にはダメ出しをされていましたし、またいとこともよく比較されて(今目の前にいる!)、否定されていたからです。
あり得べきは、間違いなくいとこの子どもです。
私の母が何を考えていたのかはここでは省略しますが、今アダルトチルドレンとなっている自分の現状を鑑みるに、子どもの頃に私が受けた恒常的なダメ出しと否定は、とてつもなく大きなハンディキャップであったことを実感しました。
加えて言えば、その場に母がいたとすれば、「子どもの私を少しでも立派に見せよう」としている姿が容易に目に浮かびます。
まるで自信がなくて、オドオドしている。
子どもの私にとって、そんな母の動機は厄介で苦しいものでしかありません。
そこまで考えるとインナーチャイルドが登場しますが、そこは今日、寝る前に対話をしたいと思います。
そんな気付きがありながらも、でしたが、やはり行ってよかったと思います。
ただ、ただ楽しかったです。
ハンディキャップに気づいても、自分を悲しく思うことはありませんでした。
そもそも久々に実家を離れて過ごしている間、母だったり昔の苦しいことだったりを考えることが、ほぼありませんでした。
今の私が、なんとかこうしてアダルトチルドレンの克服に取り組めているのも、亡き祖父母だったり、こうした親類の存在も大きいように思います。
これで、あとはなんとか「自分もやっていける」と思えるようになれば…。
今日もお疲れさまでした!
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