サブカルで学ぶ社会学③ 『象徴的不死』 ~『ウルヴァリン:SAMURAI』より、ある青年将校の悲劇~


はじめに(注意書き)

はじめましての方ははじめまして。そうではない方はいつもお世話になっております、吹井賢です。

大好評(本当か?)『サブカルで学ぶ社会学』第三回です。
大学時代は自律神経失調症を拗らせて希死念慮に押し潰されそうになりながら公募処女作を書き上げて(なんとマジ)、そもそもアニメに影響を受けて社会学を勉強しようと決意した吹井賢(なんとこれもマジ)が、社会学やその周辺科学、つまり、政治学・哲学・精神医学・等々に出てくる概念を、サブカルチャーを絡めつつ、分かりやすいが論文で引用すると怒られる程度にはふわっとした感じに、解説していこう、という記事です。

最初にお断りをば。

※あくまでも娯楽として楽しんでください。
※興味を持った概念については、この記事を読むだけではなく、信用に足る文献を読み、講義を受けることをお勧めします。
※そして僕に分かりやすく教えてください。

※今回、『ウルヴァリン:SAMURAI』のネタバレがあります。

それでは始めます。



ウルヴァリンの言った『サヨナラ』

皆さん、『X‐MEN』シリーズは見ていますか?
金曜ロードショーでは『X-メン』か、『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』くらいしかやりませんし、なんだったら今だと『デッドプール』の方が有名な気がしていますが、吹井賢の好きなシリーズです。

ちなみに、いつも何処まで見たか分からなくなるため、最後まで見たことがありません。
だって『ウルヴァリン』三部作が見やすくて面白いから……。


さて、そんな『X‐メン』あるいは『ウルヴァリン』シリーズですが、その中で、最も印象的な別れのシーンは何処でしょう?

そうですね!(謎の自信)
ウルヴァリンが、『ウルヴァリン:SAMURAI』の中で下記の台詞を言う場面ですね!

「俺は別れを言いに来た」
「―――サヨナラ」

『ウルヴァリン:SAMURAI』より


第二次世界大戦末期、日本にいたウルヴァリンは、若き将校・ヤシダと知り合いました。
ヤシダは爆撃を前にして、捕虜となっていたウルヴァリン等外国人を開放する優しさを持ち、けれども、上官達が「最早これまで」という覚悟で割腹自殺をする中、自決することができない。
死ぬことが、怖かった
のだと思います。

そんな中、原爆が投下され、ウルヴァリンは青年将校ヤシダをその身を以て庇い、助けます。
そこから数十年が経ち、ヤシダは矢志田産業という巨大グループの総裁になっており、同時にその内面は、不死の願望に囚われた怪物となってしまっていました。

ヤシダの狙いは、ウルヴァリンの再生能力を奪い、矢志田産業、そして自らを永遠不滅の存在とすること―――。
その野望を止める物語が『ウルヴァリン:SAMURAI』です。


なんか評判はあんまりですが、新幹線の上の戦いとラストバトルは滅茶苦茶カッコいいんで、見てください。



死を恐れる気持ちと、『象徴的不死』

大抵の人間は死ぬことが怖いでしょう。
しかし、三段論法の例にもあるように、人間は皆、いつかは死ぬのです。

この揺るぎようのない、恐るべき真実について、多くの哲学者たちは思案してきました。
同時に、医療や福祉の分野でも、「人は自らの『死』をどう受け止めるか?」は重大なテーマです。


精神学者であるロバート・J・リフトンも、死に関する研究を行った科学者の一人です。

リフトンは、「人は、自らの営みを”何か”に託すことで生き続ける、と考える」と提唱しました。
これを『象徴的不死』と呼びます。

曰く、この『象徴的不死』には5つのモードがあるそうです。
以下がその5つです。

  1. 生物学的モード(子孫繫栄など)

  2. 神学的モード(「魂は不滅である」というような思想)

  3. 創造的モード(業績や名誉、即ち名を残す)

  4. 自然的モード(自然と一体化するという考え方)

  5. 経験的超越モード(神秘体験による生死の超越)

⑤が少しばかり分かりにくいですが、これは要するに悟りの境地です。
単に天国とか地獄とか、輪廻転生という宗教的な考え方ではなく、生死を超越した域に達した場合、ということですね。
……それブッタ一人じゃないの?


なお、今回の参考文献である『社会学がわかる辞典』には(マジで分かりやすい)、このようにあります。

「民俗学者の柳田邦男によれば、日本人の伝統的な死生観はつぎのようなものであった。」
「ひとが死ぬと、霊魂は肉体から離れるが、まだ現世に未練があってそこらを浮遊している。だが、何年もかけてとむらってやると、未練はなくなり山へのぼっていく。そこには先祖代々の霊魂が融合した祖霊が待っており、一体化する。」
(中略)
「これは①と②と④の結合と言えよう。」

『社会学がわかる辞典』より



ある青年将校の悲劇――戦争と、不死と、私達

僕は、『ウルヴァリン:SAMURAI』は、悲劇的な物語だと思っています。

青年将校ヤシダは、あの戦争を生き残った。
それ自体は良いことだったでしょう。
けれども、ウルヴァリンという実際に不老不死の存在を知ることで、「神州日本」とか「英霊」とか、そういった物語を信じられなくなってしまったんだと思います。
リフトンが語った『象徴的不死』から、実際の不死を求めてしまった。

刀に刻んだ『不老不死不滅』という言葉が――現実味を、帯びてしまった。


老いたヤシダは、その真意を明かす前、数十年ぶりにあったウルヴァリンにこんな風なことを言います。
「生きるのは疲れただろう」「多くのものを失くせば、生きがいが尽きる」と。
「私の国では、主君を失くした侍を『浪人』と呼ぶ。お前はそれだ」と。

しかし、そう言うヤシダこそ、”浪人”だったのではないでしょうか?

不老不死という妄想に囚われ、守るべきモノを見失ってしまった侍。


映画のクライマックス、ウルヴァリンは「サヨナラ」と言い、ヤシダにトドメを刺します。

古い知り合いに別れを言いに来たんだ、と語っていたウルヴァリン。
彼はきっと、自分を助けようとする優しさを持っていたヤシダがもういないことを理解していて、だから、別れを告げたのでしょう――『サヨナラ』と。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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最近気付いたんですけど、吹井賢がエセ日本SF的なノリが好きなの、『がんばれゴエモン』の影響ですね……。
(この映画で城が出てきた時も変な風に盛り上がってしまった)


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