ゴミはどこからやって来るか?

毎日炊事をしていると見えて来る事がある。
ゴミ箱の中身だ。
僕の住む市町村では「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」とで大別している。そして中々に厳しい。燃えないゴミの中に燃えるゴミが混入しよう物なら容赦無く回収されずにゴミステーションに残され、近所から「ごみ残ってるよー!」と連絡が来たりする。そしたら渋々ゴミを取りに行って「燃えるゴミとやら」をぬいてから再度ゴミステーションに再び置いて来る。

ただこの「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」の定義が難しい。これは物理的に燃えるか燃えないかの判断ではないことは承知しているが、かといって「プラゴミ」=「再生可能なゴミ」=「燃えないゴミ」ではないのも確かだ。

印象的には「燃えるゴミ」の方が許容範囲が大きい。燃えるゴミにプラスチックやビニールゴミが混じっても問題なく回収される。しかし、「燃えないゴミ」の中に液体や油汚れのあるプラゴミやビニールゴミが混じると弾かれる。

要するにパッケージによくある四角く囲った矢印に「プラ」と書かれたいかにも再生できるよ的なマークがあるが、あのマークがあってもそれが少しでも汚れていると「燃えるゴミ」と見なされるのだ。なので、「燃えないゴミ」として出したかったら、液体が入っていた袋も、マヨネーズもケチャップの空容器もきっちり洗わなければならないという作業が増える。

わかる。不純物が混入すると再生するのに選別、洗浄という工程でコストがかかる。そして、燃えるゴミにプラゴミがあればよく燃える。それもよくわかる。

だが、主夫目線で言わせて貰えば洗う手間より、燃えるゴミとして捨てる方が断然に手間が省ける。結果、燃えるゴミの中に大量のプラゴミが混在する事になる。こうして再生されるはずの資源は焼却場の燃料としてダイオキシンに変わる。

本音と建前、大人の事情、暗黙の了解で子供に説明がつかない矛盾を抱えながら僕らはまたゴミを捨てている。

とまあそんなわけで本題に入ろうと思う。

燃える燃えないに関わらず、僕らは生活していれば「ゴミ」が出る。しかも結構な量のゴミだ。そこでゴミの内容を日々気にするようになった。すると驚くべき真実が明らかになった。
缶・瓶・古紙・燃える燃えないという分別で分けているゴミたちは全てお金を出して購入しているものだったのだ。
当たり前といえば当たり前。でもちょっと気付きの部分もあるのではなかろうか?僕らはお金を使うともれなくゴミがついてくる。つまり、商品を買う=中身とゴミを買うという事になる。肉も魚も野菜もちくわも小麦粉も全てゴミで覆われているからだ。特に納豆なんかは食べる部分よりゴミの方が多いではないか。
となれば、ゴミを減らしたいという人は買い物を減らせばいいという事になる。

ではどうすれば買い物を減らせるか?それは自ら生産手段を持つ事だと言いたい。畑を持っていれば野菜を生産できる。自分で消費する野菜にわざわざビニールゴミを覆う必要はない。もちろん畑もゴミは出る、だが畑から出るゴミはごく少量だ。
鶏とヤギがいれば卵を包装するプラは不要で、牛乳パックも不要だ。しかも粗飼料で上質な堆肥も排泄してくれる。
パンやお菓子は自分で作るのが一番だ。個包装したお菓子ほどゴミが多い商品もない。多少手間はかかるがコスパもいいし、だいいち美味いし不好ましくない添加物も入らない。すこしネットで検索すれば手間いらずなレシピなんて溢れかえっているのだし。

マヨネーズもケチャップもドレッシングも何でも自給可能な調味料さ。

ただストイックになりすぎて、こだわりが足枷になる人も多い。だから僕は緩めに自給率を上げてゆく。たまには肉も魚も食べたいし、塩・砂糖・酢などの基本調味料や歯ブラシやトイレットペーパーなどの生活消耗品は買わなきゃ手に入らないのだから。
理想と現実ではなく、現実を理想に近づける。そんな感じで今日もゆるく生きてゆきたい。


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