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小人閑居して不善をなす


雨の日の午後、たばこの煙がいつもより濃い。肺に一旦入って吐き出された煙は、吐き出された瞬間は目に見えて煙だとわかるが、すぐに空中で霧消してしまう。見えなくなった煙はどこへ行くのだろう。宇宙まで飛んでいってよくわからない煙の層なんかを作っていたりしないだろうか。
この頃、ベランダでの喫煙が増えている。寒すぎるベランダで煙草を吸っていると、吐いた煙なのか、白い息なのかよくわからない。今日から年末年始の休暇で、明日から帰省する予定だった。あいにく明日も雨の予報で、気分も晴れない。

終わりよければすべてよし、とか、有終の美、とか、年末になるとこういう言葉たちにすがって、何かを終わらせようと思う。でも何が終わるのかいつもわからない。本当は何も終わってなんかいないのだろう。そう、何も終わっていない。

それに加え、年始になると何かが始まる予感で満たされる。今年の目標なんか立てたりして、何かを始めようとする。そういう気分にさせられる。数日前まで何かを終わらせようとしていたやつが、何かを始めようとするなんて、少し滑稽な感じがするけれど、そんなこといちいち気にしていたら人生やってらんない。

年末には何も終わらず、新年を迎えては何も始まらない、今まで引いてきた線が色も太さも変わらずそのまま延長されるだけの、日々の連続。



通っていた中学校は桜並木が綺麗だった。4月も半ばになると桜吹雪が舞い、校庭はピンクの海となった。風の強い日は、校舎が花びらの波に呑まれるほどで、僕たちの制服の襟には桜を象徴としたエンブレムが付けられていた。学校のメインカラーもピンクだった。けれど桜が好きなわけではなかった。嫌いでもなかった。綺麗だとは思うが、好きにはなれなかった。母校への愛もそこそこに、桜の散った後の中学校に十数年ぶりに訪れた。

あの頃の友人たちと訪れた久しぶりの中学。懐かしさがこみ上げるかと思ったが、僕らが通っていた頃とずいぶん様子が違う。授業を受けていた校舎はすっかりなくなり、駐輪場に変化していた。
野球部だった頃の、白球を追いかけていた自分の姿を追憶したくなりグラウンドへ行くと、そこにあったはずの僕らの血と汗が染み込んだ青春のグラウンドは跡形もなく、ピカピカの新設校舎が建っていた。

なーんかずいぶん変わっちゃったなぁ、と友人のひと言。それでも所々は昔のままで僕らは時々感傷に浸った。

野球部の顧問がこちらへやって来て、「おぉー、なんだか久しぶりの顔だなぁ!」と声をかけてきた。中学生の頃から比べて僕らも随分と大人になったはずなのに、ひと目見てわかるものなのだろうか。監督は相変わらず小太りでほとんど変化が認められなかった。

近頃、野球は子どもたちの間で人気のスポーツではない。オリンピックパラリンピックだって競技種目が増えた。今は色んなスポーツがある。野球部の部員数は僕らの頃から1/3ほどに減っていた。野球部の現状を監督は少し寂しそうに語った。

時代が移れば、色々なものが変化する。そんな当たり前のことに改めて気付かされた。そういった変化に疎いとは思わないが、こうして母校の変化を目の当たりにすると、途端に自分事化してしまい、喪失感に似た感情に支配される。郷愁というのは、こうした喪失感と併せて感じられるものだとも気付かされた。

帰り際、友人の鞄に一片の桜がくっついていた。季節外れの卒業式みたいだと思った。校舎は変わっても、桜の木だけは変わらず存在感があった。次はいつ来ようかしら。そんなことを話しながらみんなで帰った。



昨年の夏、「夏よ、グッバイ!」というエッセイを書いた。夏の思い出を日記感覚で書いてみた。
毎年、夏になるとどこかへ旅したくなる。今年も山陽へ出掛けた。こんなことだから思い出が増えて、季節への恋しさが込み上げてくるのかもしれない。
秋の足音が聴こえてくる時季になると、夏への未練からか、カンカン照りのアスファルトと眩しすぎる青空と蝉の鳴き声を思い出す。あまりに眩しい思い出だから、カメラの絞り値を開きすぎたみたいに、白くぼけた映像が夏の風景となって思い出される。
そうした夏への未練を表現したくて、これも昨年「少年はやがて大人になって」というエッセイを書いた。僕の中で「少年」は夏の象徴だった。僕が野球少年だったからかもしれない。そうした季節の移り変わりを、少年から大人へと変化する自分に重ね合わせた。



長すぎるお盆休みも、もうすぐ終わる。毎年10連休もある弊社の夏休みは親会社に合わせてのことだから、連休中の2〜3日は仕事している人なんて、僕を含めて多くいるだろう。
こんなことなら世間に合わせてしっかり働きたい、なんて思わないこともないが、連休に甘えてダラダラ過ごすことに背徳感を覚えている。

毎年、8月15日が近くなると、戦争について考える。小さい頃からの癖みたいなもので、漠然と、戦争というものを頭の中で映像化する。これまでに見聞した、映画や小説や写真などから得た情報をソースにしてるのは間違いないが、僕の「戦争映像」は戦場を映さず、庶民たちの貧しい生活を映す。きっとそういう作品が世の中に多いのだろう。これは子どもの頃から変わらない。
戦争で亡くなった人たちを悼むことがどれほど大切なことか、理解している。戦死者への哀悼は、僕の場合、独特の「戦争映像」となって迫り、強烈な哀愁となって体を包む。これは僕の不徳のいたす所だろうか。



カメラの設定をビビットからセピアに変えるみたいに、季節は夏から秋へと変化する。これまで書いてきたエッセイを読み返すと、季節への描写が多く、文章があざとくて嫌になってくる。
目の前に社用のパソコンを開けて作業の途中なのに、こんな文章を書いて時間を食いつぶしている。仕事進めなきゃ、という思いが頭上に積もって首が重たい。

頭上に積もって重くなったチリを払いたいから、そろそろ仕事に戻ろう。





ではまた。



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