日常から滑り込むように非日常空間へと移り変わる法則の一つ一つがもしかしたら些細な喜びを伝えてくれるのかもしれない。薄明かりに照らされた劇場に観客たちが着席を終えると、これから始まる物語の中へと身体と意識の全てを放り込み、『円夜凪』によって作り出される空間と一体化する。

「今宵は我が劇団『銀の匙』公演にお越し頂き誠にありがとうございます。すべての劇場装置はあなたの感性を刺激し、視覚と聴覚を別の次元へと導くために。すべての情念に溢れた台詞はあなたの感情を揺れ動かし、混沌に紛れ込んだ記憶を呼び起こすために。すべての計算され尽くした演出はあなたの思考を隅々まで分解して再構成するために。ぜひ最後までゆっくりとご堪能下さいませ」

池袋芸術劇場の舞台上に主宰『円夜凪』が立った瞬間に、池袋芸術劇場内の空気は一変する。

呼吸をするのも戸惑い、たった一つの所作によって微かに与える変化すら拒まれる。

故に、『円夜凪』が開演の知らせを告げた瞬間に包まれた深淵に関する緻密で精細な結界の発動に対して観客席にいたものは呑みこまれて身動きが取れず、いずれ訪れる冥界と幻惑に関する顛末を見守ることしか出来ないのだという事実を思い知らされることとなる。

再び幕が下されて開演を知らせるベルが鳴り響き、暗闇が訪れてまるで延命措置を取られた末期癌の患者のように切迫した観念が蒸発して、芸術劇場に訪れた観客たちの聴覚と視覚を支配する。

暗転した空間に薄明かりが灯されると、正面のスピーカーから吹き荒ぶ風と叩きつけるような雨の音が鳴らされてゆっくりと垂幕があがり始めていく。

【ミランダ】(父よ！　このままではこの船は嵐に呑みこまれて生きて帰ることすらままなりません！　何卒ご覚悟を。このミランダは父と最後まで添い遂げる気でいるのです！)

舞台上手から雨に濡れてずっしりと重みの増した貴族服をまとった『銀の匙』筆頭女優『加戸詩由子』が頸あたりでまとめた黒髪姿で中央に向かって走り寄ってくる。

【プロスペロー】(ミランダよ！　そうそう簡単に諦めるものではない。このプロスペローがいる限り、寄る辺なく沈みゆくことなどありえんのだ。従者たちに命を与えろ。決して雨にも風にも打ちひしがれることなく希望を捨て去るなと。父が必ずお前たちを生きて王宮を奪い返すものと心得よと)

下手から現れたのは先程、舞台挨拶を終えて中央で圧倒的な威厳と神性に包まれた雰囲気をまとって現れた『円夜凪』で、王としての風格を示す中世ヨーロッパ風の衣装に身を包み、舞台上には彼女と『加戸詩由子』の周囲を照らす僅かな光があるだけで一切の余分な装置はないにも関わらず、観客たちは瞬きするのも忘れて二人の演技に吸い込まれていく。

雨音が一段と強くなり、荒れ狂う暴風を感じさせる音響と供に舞台に横殴りの雨が降らされて二人の主演が大声で指示を出しながらなんとか荒波を乗り越えようと逆転した時間の渦が大きな口を開けて待っている船の上での光景を具現化し始める。

大きな過ちの中へと閉じ込められてしまった二人の魂が船上で足掻く様子を演じる二人に暗闇がもたらされたかと思うと、舞台正面奥に巨大な哺乳類の口腔が開かれて映し出さられてかと思うと、ボタンの掛け違えられた装置を何もかも無に帰してしまおうと襲いかかってくる。

【ミランダ】(父よ。これはきっと何もかも夢だったのです。私たちがあの島を抜け出して世界を手にしようとするささやかで愚かな終焉なる魔物が見せる夢。最後までお傍にいられることが出来て私は本当に幸せでした)

【プロスペロー】(ミランダ。『シロナガスクジラ』の身体の中は永遠を約束された異界に繋がっていると聞く。腹を空かせて気の緩んだ化け物の隙をつけるやもしれぬ。最後まで希望を捨てるなと言ったであろう)

大きな口が二人を呑み込んでしまったかと思うと、完全に舞台が暗転して暴風と暴雨を知らせる轟音がスピーカーから静かに消えていくと、鼓動音がなり始めて静寂の中を胎動する子宮の中へと観客たちは引き摺り込まれて、まるで時計の針が巻き戻されるように回転装置が発動して舞台が反転すると、再び舞台右手から中央にかけて照明がゆっくりとあがり始めて息苦しさが解消されるとともに明るさが取り戻されていく。

【アントニオーニ】(さぁ。こんな時間になってしまったけれど、まずはきちんとチェックインを済ませよう。少なくともディナーショーには遅れることはないはずだ、アロンゾー)

舞台上手からオールバックに縁無しの眼鏡と縦縞ストライプのスーツを着た『星川荘子』とミンクの毛皮のコートを羽織り、顔を覆うような大きめのサングラスをつけ金髪にツインテールに大きく胸元の開いたシルクの黒いドレスとハイヒールを履いた『悠美里』が並んで入ってくる。

お互いに小型のスーツケースを引きずって宿泊を予定しているようだけれど、少しだけ周りの様子を気にしながら出来るだけひと目につかないように入ってくる二人はどうやら名のある有名人のようで週刊誌のカメラのようなものを警戒しているような印象を与える。

【アロンゾー】(見た目ばかり気にする私たちが彼女の歌を欲しがるなんて皮肉なものね、アントニオーニ。けれど、少なくとも今日は私だってことを忘れていたいの。あなたがいてくれて本当によかったわ)

暗闇に包まれていた舞台下手にも照明が灯り始めると、真っ黒な礼装に身を包み、右胸に名前の刻み込まれたプレートを付けた劇団最年少でありながら俳優陣を圧倒的な演技力で牽引する『成瀬光流』が入場してくると、彼の佇まいの美しさに観客たちが息を呑み上手に立つ二人の女優と同じ気持ちでウェーブのかかった耳元にかかる黒髪の俳優に吸い込まれていく。

【ファーディナンド】(お待ちしておりました。お客様。お荷物の方はこちらでお預かりさせていただきます。フロントにて支配人がお待ちです。足元にお気をつけ下さい。私、ファーディナンドが案内役を務めさせていただきます)

『成瀬光流』に『星川荘子』と『悠美里』は手荷物を渡すと、彼の後を女性二人がまだ迷いのようなものを抱えながらも後ろからついてきて舞台下手方面へと消えていく。

照明がゆっくりと落とされていくと暗転した舞台に弱々しい灯のスポットライトに追われるようにして上手から髪の毛がボサボサでまともに整髪されていない『加戸詩由子』が入場してくる。

何かを呪うようにして独り言を呟いている彼女が暗闇の中を歩き回って当てもなく何かを探し当てようとうろつき回っている。

天井から差し込まれるスポットライトの灯は弱々しく時折彼女のいる場所を外れてしまってはみすぼらしい格好をした『加戸詩由子』の姿の道筋を照らし出そうとしている。

薄明かりすら途絶えてしまうと、舞台はホテルのフロントロビーに切り替わって今度は全体に向けて照明が放たれる。

【プロスペロー】(アントニオーニ様に、アロンゾー様。今宵はザ・ホテルをご利用頂き誠にありがとうございます。ご要望通り、お部屋の方は一般客室をご用意させて頂きました。何かご用命の際はご遠慮なくこのプロスペローなんなりとお伝え下さいませ)

縁無し眼鏡にチェーンをつけた『間黒男』が支配人役としてホテルの受付に立ち、ザ・ホテルを訪れた新しいゲストを迎え入れる。

まるで彼女たち二人を守る従者か騎士のように堂々とした風貌で『成瀬光流』が二人の傍に立ち荷物を守っている。

スピーカーからはホテルのロビーのざわつく様子が聞こえてきて溶け沈むような環境音から格式高い高級ホテルだということが伝わってくる。

上手から『円夜凪』がシックな装いの黒いスーツジャケットにネクタイと黒いミニスカートにストッキングとハイヒールを履いてゆっくりと舞台中央に向かって入場してくると、配置された役者たちの視線が彼女に向けられて儀礼を持って出迎えられると供に彼女の存在そのものが作り出す魔術結界の中にすでに観客を含めた全員が完全に取り込まれているという事実を露呈させる。

【ミランダ】(お二人ともよくお越し下さいました。スイートルームではなく一般客室を御所望のようでしたので、こちらで特別にご用意させて頂きました)

【アントニオーニ】(我侭を言ってすまない。今は派手な行動は控えたいんだ。何しろ彼女がこれからとても大切な時期だからね)

【アロンゾー】(だからってクソみたいに狭い部屋で一晩を明かすっていう考えには私は賛成できないって言ったんだけどね)

【ミランダ】(当ホテルの客室はどれをとっても一級品でございます。ご心配なさらずとも十二分な休暇になることは間違いありません)

【アントニオーニ】(それはわかっている。ただよからぬ噂を耳にすることがあってね。客の中に呪いの類を招き入れる輩が入り込んでいたというのは本当かい？)

【アロンゾー】(馬鹿はやめてよ。根も葉もない与太話を見てもいないし聞いてもいないのにあれこれ詮索するのは全く無意味なこと。お前ならわかっているはずなのに)

【ミランダ】(それはこのホテルに住み着いているという魔女のお話でしょうか。お客様の間でそう言ったお話を好む方は確かにいらっしゃります。けれど)

『円夜凪』が顎に手を当てて躊躇いがちに思索に吹けようとすると、舞台下手からとてもみすぼらしい格好でボサボサとまるで手入れのされていない髪型の『加戸詩由子』がフラフラとホテルのロビーの一室に入り込んでくる。

舞台の照明が淡く落とされると、スポットライトが『加戸詩由子』を包み込んで彼女がうなだれるように倒れ込み、『成瀬光流』が駆け寄ってきてそのまま力尽きてしまいそうな彼女を支えようとする。

【ファーディナンド】(お客様。何かお困りのことがありましたか？大変失礼だとは思いますが、ザ・ホテルのお客様ではないように思います。もしよろしければ建物の外までご案内させて頂くことは可能ですが)

【エアリアル】(貴方はやっぱり私のことを覚えていないんですね。私がどうして今日このホテルを訪れたのかどうかもわかっていない。それどころか)

みすぼらしい洋服でまるで現代的な建築様式のホテルロビーには似つかわしくない妖精の化身が二人のホテルマンの静止を振り解くようにして立ち上がると、透明で力強いハスキーボイスで一編の歌を歌い始める。

さあおいで浜の黄色い砂の上、

手に手を取って

お辞儀をしてキスしたら

海の荒浪しずかになごむ。

ぴちぴち躍れそこここで。

可愛い精霊は折り返しを歌え。

さあ、聞いて、聞いて！

バウ・ウァウ

番犬たちが吠えている。

バウ・ウァウ。

さあ聞いて、聞いて！そら

格好いいおんどりの名調子、

鳴くよ

コッカー・ディドル・ドゥー

腹の底から震えるような歌声が響き渡り、妖精を支えていたホテルマンが息を呑んで心の奥底に眠っていた記憶を呼び起こされる。

入り口を間違えていたことに気付いてバラバラに配置されていた歯車が元の場所に納められていくと自然のリズムを取り戻していく。

【ファーディナンド】(貴方の歌には聞き覚えがあります。なぜこのような場所でみすぼらしい服装をされているのですか。支配人に許しを取って今晩のディナーショーに間に合わせたい)

スポットライトが中央で歌声を響かせた妖精に当てられるけれど、彼女の方を向いているのは『成瀬光流』だけで他の誰も彼女の姿など気に止めようとはしていない。

空気のように透明な存在が掴みとれる座標にだけ届くようにと答えを教えにやってくると、スポットライトは舞台全体を照らすように拡がって再びホテルロビーを舞台上に作り出して配置された役者たちを機能的に循環させる。

【エアリアル】(いえ、私は貴方にこの詩を届けることが出来ればそれで良いのです。決して晴らせぬ恨みを抱えたまま魔女の呪いに翻弄されていたくはない。このお礼はいずれまた。決して深淵の暗闇の居場所を失わせてはいけません)

名残り惜しそうに『成瀬光流』の手を振り解くようにして『加戸詩由子』は立ち上がって再び舞台下手へと消えていく。

舞台奥ではフロントで手続きを終えたストライプスーツの男と毛皮のコートの女が『円夜凪』に先導されて舞台上手へと連れられていく。

三人の動きに気付いた『成瀬光流』は『加戸詩由子』の未練を断ち切るようにして立ち上がり、上客二人の手荷物を運んで上手へと消えていく。

【プロスペロー】(シクラコスの呪いがザ・ホテルの中に侵入してきている。もし少しでも手順を間違えてしまえば、私たちは再び嵐に呑まれてこの世界から抜け出さなくてはいけなくなってしまう。ミランダ、頼みましたよ。私たちはずっとこのままの姿でいるべきなのです)

池袋芸術劇場に暗闇が訪れて未来が奪われていくような感覚が照明装置と無音を提供する音響装置によって提唱される。

四分三十三秒よりもっと短い時間の沈黙が息すらつかせぬ気配の中で進行していくと、重厚な足音と供に白い光が足音とシンクロするように動きながら明るさを呼び戻していく。

【キャリバン】(食事の時間が始まる。牢獄を求めてやってくる亡者たちに私は歌を届けてやる。聖人には嘲りを。悪人には救済を)

巨漢の『美鈴霊子』は『銀の匙』にしては珍しい当初からのメンバーではなく五年ほど前にオーディションで加入した女優である。

外部からの役者は客演のみに留めながら活動を続け、政治的機能を媒介にした魔術装置の発動を主たる目的とする劇団であったにも関わらず、第二十七回『オイディプス王』公演中に起きた劇団結成当初から『円夜凪』の一部として機能した水恩寺莉裏香という反転装置の消失してしまったボタンのかけ違いを是正するために、よりアクの強い個性的なパーツを求めた『円夜凪』は『美鈴霊子』だけを他の候補者の中から選び取り、圧倒的な演技力と歌唱力備えた俳優としていかなる公演においても『銀の匙』の主軸として配置している。

【トリンキュロー】(またご機嫌斜めなのですね。うまいものが食えずに腹を空かせただけでいつもこうだ。あんたの口を満足させるものなんて本当にこの世に存在するんですかね)

『美鈴霊子』の動きに合わせて照明がゆっくりとあがると舞台中央にはまるで彼女の生き写しであるような大きな鏡が用意されていて、すぐ傍には右の目元に横に三つ並んだ星形、左手の甲に蓮の花の刺青が入った『藍川夢』が自身の装飾をさらに誇張するような道化師の化粧を施して立っていて中央へと、のそのそと歩いてきた『美鈴霊子』を挑発する。

ゆうに大人三人分はあろうかという巨軀を鏡に映すために身体を半身にして後ろ姿を見せて客席に半分だけ尻を向け鏡に映った自己愛に満ちた表情だけで観客たちに悪寒と予感を同時に感じさせる。

【キャリバン】(煩いやつだね。いいかい、シクラコスの予言が正しいなら今夜は私の歌に聞き惚れるやつらで溢れかえる。世の中は死にたいやつらで溢れ返っているんだ。大切にしてやらなきゃいけない)

【トリンキュロー】(馬鹿げているよ。大体歌も踊りもあんたにしたらお遊びみたいなもんだ。だったら死にたい奴は死なせておけばいいだろ)

【キャリバン】(それは違うねぇ。私は歌を聞かせてやりたいんだ。そういう奴らにね。今日が命日だっていうなら尚更目にもの見せてやりたいだろ)

【トリンキュロー】(それならあんたに勝てるものはこのホテルには誰もいないよ。一体どれほどの奴らがあんたに会いたくてディナーショーを予約していると思っているんだ)

『美鈴霊子』は鏡の前に座ってお化粧直しをしている。

誰にも自分の身体を触らせる気がないんだってことを伝えるように白粉を塗った後に、発声練習がてらに『レ・ミゼラブル』を歌い出す。

悲劇を求めるようにして背中の曲がったタキシードスーツ姿の黒人と白人の皮膚が継ぎ接ぎにされた顔でモノクルをかけた『源総持』が舞台下手から杖をつきながら入ってくる。

客演として招かれた彼はたった一人で都市の路上に出向き、破壊された社会的機能を正常な状態へと呼び戻すための訴えを誰にも見向きもされないまま駅前でパフォーマンスを行っていたところを『円夜凪』と出会って意気投合すると、今回の公演に招き入れられたのだという事実を誇示するようにして大袈裟だけれどどこか謙虚な姿勢のまま舞台装置に侵入を始めてくる。

【ステファノ】(なんだ。騒々しい奴らだ。そこの肥えた豚の戯言なんかにかまっていないでさっさと準備を整えるんだ。お客どもは待っちゃくれない。私たちに出来ることは昔からそれだけだろう)

杖を振り回しながら『源総持』が『藍川夢』を叩きのめしながら上手の方に二人で揃って退出していく。

照明が出来る限り暗闇に馴染むように落とされていくと、鏡の前に陣取った『美鈴霊子』にスポットライトが当てられる。

【キャリバン】(鏡よ、鏡。世界で一番美しいのはだぁれ？)

巨軀にも関わらず思わず魅了される声の『美鈴霊子』をきっかけとして大鏡に自分自身の姿が映し出されると、鏡面に波が立つようにして揺らぎ始めて嵐によって掻き乱されるガレオン船が大きく口を開けた『シロナガスクジラ』に呑み込まれていく様子に切り替わる。

真二つに割れてしまったガレオン船が海の底へと沈んでいきながら荒れ狂う海の中で泡立つ暗闇の中で溺れているのは黒い眼帯をつけた女で彼女が手を伸ばしながら深くどこまでも続く漆黒へ沈んでいくのを体長二十メートルは悠に超える巨大な影が呑み込んでしまうと、微かな光が閉ざされた空間の中に予兆として現れ始める。

嵐の影響で乱れる海流をものともせずに深海を泳ぐ白鯨の行く手を遮るものはどこにも見当たらず血の匂いが零されていなかったからか頬白鮫にも見つかることがなかったので怠惰と愚鈍の象徴は近付くにつれ明るさと大きさを増す『一縷の希望』を掴み取るようにして光のさす方へ終わりなき旅を続けていくと照明がすっかり落とされて大鏡と巨大な女は見えなくなり、舞台脇のスピーカーから燃え盛る炎の音がメラメラと聞こえ始める。

どこかで果たせなかった思いのようなものに火が飛び移り記憶のかけらのようなものを燃やし尽くそうとしているのかもしれない。自由と正義が奪われて美醜が逆転する現象のスイッチがザ・ホテルのどこかで押されているのかもしれないと錯覚が舞台上に配置される。

【エアリアル】(あぁ、なぜ私はまたあの人の手を離してしまったりしてしまったのだろう。これでは私の中で荒れ狂う憎しみが晴れないまま永遠なんてものに取り憑かれてしまう。支配人に言われた通り私は私であり続けただけだというのに！)

スピーカーから炎の出る音が消えてしまうと脚元をふらつかせながら白い肌の妖精が舞いを踊るように下手から入ってきてスポットライトが彼女の後を追う。

憂いを溢すようにして涙を流して蹲る『加戸詩由子』の傍にスポットライトの外側から誰かの手が差し伸べられて彼女は迷わずその手を掴み取ると立ち上がり、暗闇の中を二人で突き進んでいくと薄暗さの中に佇んでいた巨大な身体が浮かび上がって今度は鏡ではなく正面を向いて自信に満ち溢れた表情で歌を歌い始める。

魚取りの堰はもう造らない。

薪ももう運ばない。

頼まれたって。

盆も磨かない、皿も洗わない。

バン、バン、キャリバンは

新しい主人を見つけた、新しい家来やとえ。

自由だ、今日こそ万歳！万歳、自由だ！

自由だ、万歳、自由だ！

自由を賛美し終わると、巨大な怪物は後方に向かって付いてこいという仕草をして下手へと大きな足音を立てて消えていく。

後ろには誰もついてきてなどいないけれど、一切の迷いがない行動に左右と天地が逆転してしまったような印象だけが残って再び照明が落とされる。

【ファーディナンド】(お待ちしておりました。今年もまたこの時期にいらっしゃってくださったのですね。当ホテルは全身全霊を持ってお客様に最大限のおもてなしをさせていただくつもりです。さぁ、ゴンザーロ様、セレンティーヌ様、中へお入りください)

上手から入場する『成瀬光流』に合わせて照明が挙げられて、後に続くようにして銀の匙結成当初から在籍している韓国人女優の『旬倫』と『銀の匙』副団長である角刈りの『尾道仁太』がどこにでもいるごく普通の中年女性のように何の変哲もない服装で入場して、さらに彼らの後ろをついてくるようにして十二歳前後の双子の男の子が半ズボンとワイシャツに蝶ネクタイという姿でタイの色だけを赤と黒に変えてついてくる。

一人は礼儀正しく一人はやんちゃそうな年相応な動きをしている姿形がそっくりな二人は東條渚と東條カヲルでこの日の為に特別に『円夜凪』に招待された子役として舞台装置に新鮮さと期待感を同時に添えている。

【エイドリアン】(ねえ、パパ。今年もまたあのでっかいおばさんの歌を聞きにきたの？　もうぼくらは飽きてしまったよ)

【フランシスコ】(けど、いくら何でもリバーブ深めで内省的な歌をあいつに歌わせるわけにもいかないだろ、お兄ちゃん。マンネリってやつはぼくらにとって必要不可欠な予定調和なんだ)

【セレンティーヌ】(いつも同じでずっと変わらない。これがどんなに素晴らしいことか気付くようになるにはきっとまだまだ時間がかかるでしょうね。私たちにはそういうイベントが必要なのよ)

【ゴンザーロ】(だからこそ、あの怪物の歌で毎日に些細なスパイスを加えるんだ。ママの手料理ばかりでは飽きてしまうだろう)

『尾道仁太』が家族三人を守るように先導して歩いていくと、東條渚と東條カヲルが笑顔を振りまきながら向き合って『旬倫』と手を繋ぐようにしてホテルロビーへと入場する。

【ファーディナンド】(その通りです。ゴンザーロ様。ザ・ホテルはお客様に些細な非日常をお送りする為だけに存在しているのです。こうやって毎年のように脚を運んでくださるお客様にも決していつもと同じものは提供いたしません。ぜひ今宵も夢の世界へとご招待させて頂きます)

『成瀬光流』は後ろを振り返り両手を拡げて家族四人を舞台中央へ案内していくと、下手から『円夜凪』が出迎えて劇場内の空気が一気に束縛から解放された自由によって再定義され、舞台上の照明に白だけではなく赤や青や緑や黄色が付け加えられると、『円夜凪』は最大限の儀礼的態度でお辞儀をして日常から侵入してきて異邦人を堂々とザ・ホテルの中へと招き入れる。

【ミランダ】(お客様。ザ・ホテルでは精密に計算され尽くした魔術によって決して他では味わうことの出来ない異世界へとご案内させて頂きます。例え感情を揺さぶられる場面や平常心を保つことが出来ない時間に遭遇したとしても決して慌てる必要はありません。此処では全ての法則が夢と奇跡の為に作られているのです。ぜひその全てを隅から隅までご堪能くださいませ)

照明が突然何かのきっかけで遮断されるようにして落とされると、家族四人の悲鳴が舞台上で発せられる。

三秒間だけ何も捉えることの出来ない暗闇によって何もかもが奪われてしまうと同時に再び眩いばかりの光が与えられて、中央に鎖付きの銀縁眼鏡をかけた『間黒男』が受付フロントの舞台装置と一緒に現れて、『尾道仁太』と旬倫と東條兄弟の四人に歓迎の意を示す。

【プロスペロー】(我々は夢と同じもので作られており、我々の儚い命は眠りと供に終わる。偉大なる稀人が示した舞台はこのザ・ホテルに受け継がれてお客様たちを満足させることでしょう。さぁ、お荷物をこちらへ。向こう側から持ってきたものはこちらでは何の役にも立ちません。扉を開けた次の瞬間には全てが一握の砂に変わってしまう私たちの夢をぜひお受け取りください)

『間黒男』は『尾道仁太』に明文が記された紙を一枚手渡して、備え付けられたボールペンを使って彼らの名前を記入するように促してザ・ホテルの招待状へと変化させる。

【ゴンザーロ】(これで私は偉大なナポリ王に使える聡明な顧問ということになり、我が妻はナポリ王の妹としてこのホテルでは過ごすことが出来る様になるのだね。エイドリアンとフランシスコはさながら私の忠実な家臣といったところだろうか)

【エイドリアン】(うーん、ぼくはきっと世界を恐怖のどん底に陥れる為に堕天した悪魔じゃないかな。きっとパパとママをうんと困らせて何もかも奪おうと襲いかかってくるんだ)

【フランシスコ】(それじゃあぼくはお兄ちゃんからパパとママを守り通すヒーローになって世界を救うことにしよう。誰にも真似出来ない力を使ってぼくだけの必殺技でお兄ちゃんを倒すんだ)

【セレンティーヌ】(そうね。けれど、私はきっとどこまでいってもパパの傍にいてお前たち二人を守るママであることに変わりはないわ。どこにいても何があっても変わらないものをあなたたちに与えられるということを私は奇跡と呼んでいるの)

『旬倫』の一言によって東條兄弟に一点の曇りもない笑顔がもたらされた瞬間をあざとく『間黒男』は銀縁眼鏡から覗き込むと、右手の人差し指で眼鏡の縁を押し上げるのを合図にして『成瀬光流』と『円夜凪』が同時に家族四人に背を向けるように反転する。

まるで機能的で合理的な装置が完全性を獲得する為だけに配置された瞬間に漆黒によって未来が奪われて舞台上は五秒間の暗闇によって支配される。

『円夜凪』の何もかもを見通してなお一切の力が及ばない無力の源たる叫び声が発せられると、ただ舞台を装置として転換するための照明によって真っ白な光が訪れて、先ほどまで一個の人間として存在していた『尾道仁太』が首を切り落とされた死体として発見される。