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料理を楽しむために大事なこと

先日、とあるイベントでスープ作家の有賀薫さんのレシピが話題にあがりました。

そこにいた書籍の担当編集者さんが「みんな作ってSNSにアップしてくれるんですけど、それがぜんぜんレシピ通りじゃなくて…」と言っていたのが印象的で(それに対して有賀さんは「本がきっかけで作ってくれたならそれでいい」と仰っていました)。

「スープ・レッスン」の連載を担当していると、みんなが思い思いアレンジしてくれているのは普通のことのように思っていたのですが、一般的にはレシピ通りに作ることのほうが多いのかもしれません。

とくに料理初心者の人は自分を含めレシピを見ながら料理することが多いように思うのですが、料理を楽しむ上で大切なのは「(いい意味で)レシピから離れる」ことではないかという気がします。レシピから離れることで、料理が自分の行為になるとでもいうのでしょうか。

ちなみにレシピから離れるというのはレシピを見ないということではありません。盲目的にレシピに従うのではなく、レシピを自分のものとして、自分でアレンジもできること、主体性をもって料理できる状態のイメージです。

もちろん最初からレシピ抜きに作るのはむずかしいし、レシピに忠実に作った方がおいしい料理は作りやすい。けれどレシピに頼りすぎてレシピの奴隷のようになっていると楽しさは感じづらいようにも思います。

(↑小学2年の男の子が考えたそう。この子は楽しんで料理していそうです)

探検家の角幡唯介さんは、著書の中で「自分の行為に自分が本質的に関わるからこそ、生の充実感がある」と書いていました。「自分の行為に自分が本質的に関わる」とは角幡さんによれば〈自分が時間と労力をかけた結果としてそれが存在しており、かつその結果責任が自分の身に跳ねかえってくる〉行為だといいます。

角幡さんの場合は、それが北極での犬橇旅行で、自ら作る犬橇の仕上がりいかんによっては命を落としかねない。途中で何かあっても誰のせいにもできない状態ですが、この状態が自分の行為に自分が本質的に関わっている充実感をもたらす、といいます。

一方で現代においては多くの行為が外部に依存しています。食事にしても買ってきて済ませることもできるし、宅配で頼むこともできる。移動するのも電車や車、ナビに頼るし、娯楽を愉しむにも動画サービスに登録したりなど外部のシステムに依存しがちです。

角幡さんは冒険の本質はシステムの外側に出ることだといい「機械や他者に判断を丸投げしても、そこに生きる喜びはないのではないでしょうか」と問いかけます。冒険というと一般の私たちには縁遠いように感じてしまいそうですが、ここには生きることの本質があるようにも感じます。

自分の外の情報を読み解いて、自分の力で自分の行動を作り、たとえば登山だったら登山というものを完成させる。一つの行動作品を作り上げていくのは楽しいですよ。

文藝春秋digital「角幡唯介(探検家)×有働由美子「カーナビ、スマホは使わない」」

このように考えるとレシピを見つつ、それに盲目的に従っている状態では料理に本質的に関わっているとは言いにくいのかもしれません。行為に本質的に関わるとは、対象をよく見て、自分で考え、判断して、行動していくこと。そのためには、最低限の知識が必要になってくるのでしょうけど、それを押さえたら、主体性をもって料理することが料理の楽しさにつながってくるように思えます。

その意味で、有賀さんのレシピを見た読者の方が、オリジナリティをもって料理をアレンジするのは大成功なのではと個人的には思います。

スープレッスンは、忙しい人でも気軽においしいものが作れるように極限まで材料と工程をシンプルにしているのが特徴ですが、シンプルなゆえにアレンジしやすいのも特徴です。だから記事の最後には必ずアレンジレシピが載っています。

ベーシックなスープの作り方を押さえたら、そこに自分の創造力を働かせて、料理をしてみる。料理を楽しんでいる人はきっと普通にやっていることだと思うのですが、それがやりやすいのが有賀さんのレシピなんじゃないかな、と思います。

楽しく自炊を続けたい人に向けた自炊入門の連載も、自炊料理家の山口祐加さんと作っています。料理を自由に楽しめるようになるための考え方を書いてもらっています。


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