見出し画像

祖父のこと

小学生の頃、祖父が亡くなり、古いアルバムや写真の整理を手伝わされたことがあった。優しく微笑んでいるというくらいの印象しかない祖父の、知らない一面を垣間見るようで、どきどきしたことを覚えている。その無数の写真群のなかに、むかし祖父が戦争でパプアニューギニアのラバウルに送られていた頃のモノクロ写真があった。若かりし頃の祖父は、昭和の映画俳優を思わせるような美男子で、部隊の仲間とともに写る写真のなかで、その整った顔立ちはひときわ目立っているように思えた。そのなかに、現地人と思われる一人の若い女性と祖父がツーショットで写る一葉の写真があった。

祖父は1920年代に東京で生まれた。幼い頃に父親が亡くなり、母親は再婚。祖父は、再婚して新しく作られた家庭に馴染むことができずに、小学生のときに家を飛び出し、親戚の家で育てられたという。息子である父親がいつだったか、「親父は母親の愛情を知らない、愛情が足りないまま育った」というようなことを話していた覚えがある。そして、戦争に行く前、祖父には婚約者がいたという。それが、戦争で死別したのかあるいは離婚したのか定かではないが、とにかく祖父は愛する女性を2度失っている。祖母とは、戦後にお見合いで知り合い結婚した。生涯、祖母にとってコンプレックスだったのは、祖父に婚約者がいたという事実だったと、父親は酒に酔うと口にしていた。

現地の女性と祖父が写った一葉の写真。そこに写る女性も祖父も笑顔だった。祖父は女性にもてたという。それは、祖父の顔立ちが整っていたということだけでなく、祖父自身が女性を求めていたからではないかと、今になって思う。母性を十分に受けずに育ったということが、女性を求め、惹きつける背景にあったのではと。戦争当時、祖父が現地で女性とある一定の関係があったことを父親は断片的に聞いたことがあるという。そしてそうした一面は、戦後に祖母と結婚しても変わることはなかった。旅行で訪れた韓国で、ある女性と関係を持ち、そのときに罹った性病を祖母に移してしまったことがあったらしい。いつだか祖母は「韓国は嫌い」と言っていた。まだ幼かった頃に、朝、兄とともに祖父母の寝室をノックもせずに入っていって驚かれたことがあった。今思えば、そのとき祖母は祖父に甘えていた。祖母にとって、祖父は、平行線のように距離が縮むことのない最愛の人だったのではないかと思うのだ。

現地の女性と祖父が写った一葉の写真。そこにどのような背景があったのかは知る由もない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?