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祖母が残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#21 最終回

 親のすすめで結婚した私達ではない。いえば自分勝手に一緒になった身故、親達に迷惑をかけるわけにはいかない。
四人の子供はどうして育てよう、女親一人で大丈夫だろうか。そんな様に色々悩み、苦慮して一日何もせずぼんやりとすごした。そんな気持の中に、義兄さんの話は戦友からの知らせなのだ。まだ、たしかな公報が届いたわけではない。間違いかも知れない。そんな気休めを思ったりした。
その考えは気に消えた。
二十一年九月十五日付公報が届いた。
義兄さんが持って来られた「この知らせを持ってくるのは、本当にわしは辛かった。誰も来るとは云わんので持って来た」苦汁にみちた顔で云われた。

昭和二十年七月二十一日

ビルマ、カネクインにて戦死す

伍長 中西 栄

うすい紙切れである。
遠く日本をはなれ異国の地で死んだ人間のすべてが、このうすい紙切に託されているのか・・・・・何度も見た、何度も読んだ、書いてある字が間違ってあってほしい、空しい願いである。肩から背にかけてスーッと力が抜けていく、栄という字さえなつかしく、いとおしく感じ、じっとだきしめたい気持である。
兵隊さんがあんなに沢山帰っているのに、夫が死んだなんて、夫が帰らないのなら誰も帰らなければいいのに心を乱し、すべてを否定したいと思ったりした。
薫は目に涙をいっぱいため、声を出さず唇をじっと噛んでいる。
幸枝は涙がぽろぽろ落ちるのもふきもせず、公報をじっと見つめていた。
そんな二人を見て、私は感動さえおぼえた。母だって泣くものか、片親だってきっと子供は育てて見せる。これからは夫の分までやらなければ、泣いてなんかいられはしない。出かかる涙をのみこんで、歯をくいしばりたえた。

 それからは、子供に私のすべてをかけ育てたのです。

 翌、十六日、戦死の公報を持って会社に報告に行った。人事係には夫の友人、岡本円太郎さんがおられなつかしがられた。
御無沙汰のおわびと、家庭の現状を手短に話すとえらく同情され、帝人で働く気はないかと誘われた。
暗雲とした時である。まず生活を安定しなければならないので二ツ返事でお受けした。「今すぐとはいかないので上司と相談のうえ通知する」との事であった。十日ばかり過ぎて通知が来た。

昭和二十一年十月七日、午前八時迄に勤労係に来て下さい。
帝国人編株式会社とあった。
こうして以前夫が務めていた会社に務めることになった。

 初出勤の日仕事場はどんな所を希望するかと尋ねられたが始めての会社である、どんな仕事をと云われても分らない。年輩のおられる所を希望したけど、配属されたのは若い娘さんが、三百人ばかりも働いている加工係であった。
若い人の中で大丈夫だろうかと心配したが、仕事は同年輩のおばさんと二人の仕事なのでホットしたものだ。

 加工係三年、研究所九年、最後に寄宿係八年務め定年退社となった。
こうして、私は二十年という長い年月を帝人に務める事により無事子供達を育て上げる事が出来たのだった。
寄宿係に長く務めて、若い人達とも知り合い、そんな一人と娘が結婚したりした。
会社を止めて早や、十五年、頭に白いものが増し六十五才という年となった。夫が出征する時一番心配していた四人の子供は、今は子供の親となり、孫も九人と両手のふさがる数である。
女親一人で子供等も、淋しい辛い日もあったことだろうが、どの子もぐち一つこばさないで、元気で健康に成長出来たのは、神仏のお陰であり、夫が守っていてくれたんだと、喜んでいる。
娘婿も、嫁も皆んな我が子にはすぎた相手と思っている。
我がままなこの年寄をよく見てくれて、本当にありがとう。
夫が生前願っていた家も、息子や嫁のおかげでできた。どんなにか草葉のかげで喜んでいることだろう。そんな思いにかられる。
孫に囲まれ、子供も気をつかってくれて楽しく過す毎日だが、時折昔を振り返り郷愁を感じてなつかしく思うことがある。
人にはいえない苦労もしてきたけれど、四人の掛替のない子供が居たからこそ、淋しく、苦しい長い路を頑張って生きてこれたと思う。

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが加し、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なし」

この徳川家康の言葉、まさにその通りだとつくづく思い暮す今日この頃である。

終り


中西ハル子


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