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祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#9

 昭和二十年八月六日。

 空襲が無ければよいがそんな思いをしながら会社に急いだ。きれいに製材された板を運び束ねていた。
午前八時を少し過ぎた頃、東の方から”ピカッ”目も眩むような光が刺した。
不審に思いヒョイと頭を起し土手越しに海の向こうを見ると、宮島と江田島の間の海上から、光の無い赤いような濃い橙い色のような塊がむくむくと丸く涌き出ている。側の二人の人と何だろうかナーと目剥いて見ていた。
突然、天地がひっくり返ったかと思う程の音がした。
窓ガラスはビリビリと振動し、地面はグラグラと揺れた気がした。驚いたこと耳が破れたかと思った程である。
慌てて防空壕に駆込んだが私たち三人は一寸遅く他の人達は頭を抱えこむ様にして入っていた。
誰も口をきく者はない。二十分程そうしていただろうか外で何も起る様子がないのでソロリソロリと皆な出てきた。広島方面を見ると赤いものがポーと空中に浮き、白のようであり、又黒いような色に見え、まるで大きな茸が空中に生えているようになっていた。
一緒に仕事をしているおじさんの話では、大正何年とかに広島の比治山に有った火薬庫が暑さのために自然爆発した事がある。この頃大変に暑いから又やったんだろうと云っていた。
ところが十一時十分頃大型トラックが来てピカドンにやられて大変だ。街は火の海となり生地獄のようになっている。広島に行っている者を早く捜しに行こう。早くしろ、早よう、早ようとまるで気が狂った様にせきたてていた
それもそのはず製材所で働いている人は、大竹、波当りの人達が多く機械を扱う製材士は皆あの方面の人なのだ。
敵の飛行機が度々飛来し空襲も頻繁になるにつれ、広島の町が疎開しようという事になったらしい。その為、県内のあちらこちらの人が、手伝に行っていた。

 八月六日、その日は大竹、玖波の割当日だったので奥さん達が広島に行っていたので皆慌てて半泣きでトラックに乗り急がれた。
後に残った数人は可愛そうに急いで行ったが気は広島に行っているだろう何事も無ければよいがと話し合い、後かたずけをしてこの日は早引きをして帰った。

 世界で始めて、広島に原子爆弾が投下され何十万もの人々が亡くなった。八月が来るたびに狂気のようになって捜しに行かれた人達を思い出す。

 翌日、会社に出たがおじさん達は来ない。
次の日もその次の日も来ない。製材する人が居ないので私達は仕事が出来ず雑用をしておじさん達を待ったがそれっきり会社に来なかった。

 空襲はさらに酷くなってきた。

 八月九日には長崎に原爆が投下され多くの人々が死んだそうです。

 高く、青く澄んだ空を四本の白い飛行雲引いてB29が行く。
ピカドン"あの日から飛行機の爆音を聞くと穴に潜り込むようになった。
それ程、原爆の印象は強烈だった。ムクムクと出て来る赤い火の玉、高く空中に浮かんだ茸曇、それ程私の脳裏にハッキリと焼付き目をつむるまで永久に忘れる事は出来ないでしょう。

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