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遠藤健太郎vs塚田祐介

5月27日。
目が覚めると体重計に乗った。
「63.3kg」
前日の夜はまだオーバーしていた体重も、朝起きたら契約体重を下回っていた。体重計の液晶画面に映る数字を見て、僕はやっと安堵した。

計量が終わったら飲もうかと買っておいた経口補水液を少しだけ口に含む。
口の中全体に染み渡るように舌をコロコロと回し、ゆっくりと噛み締めるように喉を通して飲み込んだ。
飢えと渇きこそ最高の調味料だと語った哲学者の言葉通り、普段は好まない経口補水液がこの時はとてつもなく美味しくて、全身の細胞が歓喜するようだった。

***

コロナ対策の一環として検診計量とPCR検査を終えるとホテルへ直行して、明日の試合当日まで部屋で隔離状態となる。
試合用具、着替え、2日分の食料と飲料水、その他諸々を合わせると荷物はかなりの量になった。さながら小旅行に出掛ける時のように大荷物をボストンバッグに詰め込んで支度を済ませると、計量会場となる病院へ電車で向かった。

ふらふらの体で重い荷物を背負って病院に着くとまず検診とPCR検査をした。そのあと遅れて到着した相手選手陣営と計量をして無事にパスすると、対戦相手と二人並んで写真を撮った。

横から強い視線を感じる。睨まれてるのを感じながらも、僕は目を合わせず撮影を終えると淡々と水分補給をした。
試合前に感情が揺れたくなかったからだ。
今振り返れば、それは闘志の欠如が現れていたのかもしれない。
全て済ませて、タクシーを呼んだ。

***

ホテルに着くと早速食べ始める。
荷物がかさばるのを嫌って食べ物は餅とフルーツしか持っていかなかった。代わりに多数のサプリメントで補おうと錠剤ばかりを持っていったが、食事が最も大切だという当たり前の事実を手痛い授業料を支払って実感することになってしまう。

あまりかさばらないサプリばかりに頼りすぎてしまった。

電気ケトルの中で餅を茹でて、七味と醤油、ココナッツバターとメープルシロップで食べる。
腹が減ってるから美味しい。黙って食べ続けていても、明日の試合のことが頭から離れない。試合前夜を強い不安感と焦燥感に駆られながら過ごすのは、きっと僕一人じゃないはずだ。

夜も更けてきた。
時計を見て、明日のこの時間には全てが終わっているんだと思った。

夜10時15分。
この時は上手くリカバリーできていると思っていた。

明日の夜に自分は果たして笑っているのだろうか?
笑っていたい。笑っていよう。相手を倒してドヤる自分、親しい人に良い結果報告をしまくる自分、応援に来てくれた人と試合を振り返り鼻高々な自分。お金じゃ買えない勝利の報酬を妄想しながら目を瞑った。

***

5月28日。
水道橋のホテルの一室で目を覚ますと時間は刻一刻と過ぎていき、とうとう出発の時間になった。支度をしてホテルを出ると、後楽園ホールまで徒歩で向かった。

会場に着き、当日計量のため秤に乗ると64.2kgだった。スーパーライト級リミットの63.5kgでパスした前日から、僅か700gしか増えていないことに驚いた。
荷物を少なくしようとした思惑が裏目に出たことにこの時初めて気がついた。絶対的に摂取した水分量も食事量も少なかったのだ。
しかしもう気にしても仕方がない。僕は不安を振り払うように準備を始めた。

控室の前の通路を歩いていると、以前試合したことのある二人の選手と遭遇した。僕に気がつくと二人とも、「試合頑張ってください」と声をかけてくれた。
二人とは試合の時しか会ったことがなかった。リングの上で向かい合った関係性でしかないが、嘘も装飾も何一つ持ち込めないリング上で裸で殴り合った相手全員に、僕は自然と好感を抱いている。リングを下りれば同じ夢を抱き同じ世界を愛した同志だからだ。
きっと二人も、僕に似たような感情を抱いて応援の言葉をかけてくれたに違いないんじゃないか。
お礼を言い、拳を前に出して頷いた。
あとは自分がやるだけだ。小さく息を吐いて気合いを入れた。

***

試合の時間が迫ってくる。
僕は何度も時計を見ながら、今行われているのが何試合目で何ラウンドなのかを確認した。逆算して何時から準備をするかを考える。トレーナーにバンデージを巻いてもらい、顔にワセリンを塗ってもらった。
ウォーミングアップを済ませる。調子が良いのか悪いのかはわからない。もうやるしかない。
「覚悟を決めろ」自分に小声でそう言い聞かせた。

一つ前の試合が終わった。
前の選手が退場すると入場曲が流れ出した。
事前に曲を渡せず知らない曲が流れていたが、この曲が青コーナーである自分の入場曲なんだろう。
毎回使用している欅坂のサイレントマジョリティーで入場したかったと一瞬思ったが、もう後の祭りだ。気にしないように雑念を振り払い、気持ちを落ち着かせるため深呼吸を数回繰り返す。
自分のペースが整うと、リングに向かってゆっくりと歩き出した。
よし、行こう。

***

約2年ぶりに上がる後楽園ホールのリングは眩しかった。僕はリングに上がるとゆっくり一周歩いてから青コーナーに戻った。

しばらくして相手の塚田選手も通路から出てきた。歓声が聞こえる。自分より応援が多いな、と内心思った。
マウスピースとファウルカップの着用を確認され、リング中央に行き向かい合う。
レフェリーがルール説明をしているが頭に入ってこない。形だけ頷いてみせ、最後に相手とグローブを合わせて両コーナーに戻った。

試合開始の、ゴングが鳴った。

***

「最初はパンチに気をつけろよ」
ゴング直前、トレーナーに耳元で言われた言葉が耳に残る。まずは相手の動きを見極めることを意識して、パンチを避けることに集中した。
長身の塚田選手が繰り出す左ジャブを時折喰らうが、大きなパンチは貰わずに外した。リーチで上回る相手との左ジャブの差し合いに、フットワークとスピードで対抗しようとした。
自分もクリーンヒットこそないものの、左の的中率で1ラウンド目は若干優勢に進んだ気がする。

ラウンド終了のゴングが鳴った。
コーナーに帰る脚が重い。「1ラウンド目は取ったぞ」とセコンドに言われても、無駄な力みと脚の重さばかりが気になり、気持ちに余裕はなかった。

2ラウンドに入ると相手のパンチにも少しずつ慣れてきてバックステップで外していたが、いかんせん脚が動かない。
次第にフットワークを使うのが億劫になり、手で防ぐことが増えた。それに伴い被弾も増えてきたが、先に自分のいい右が一発当たった。
相手の体が泳いだのがわかった。
慌てて追撃をかける。けれど力んで繰り出すパンチは回転数が上がらない。ガードで凌がれて、ラウンド終盤には盛り返されてしまった。

3ラウンド目。
自分の緩慢な動きに余裕が出てきたのか、相手は前の手を下げて笑みを浮かべた。対する自分は笑い返す余裕もなくフットワークも止まってきた。いくつかパンチの交換をしたが、力めば力むほどに自分のパンチは当たらない。
終盤、ボディを起点に連打してきた相手の右スイングを側頭部に貰った。
効いた……
脚が泳ぐ。ガードを固める。
上下に上手く打ち分ける相手の連打に、打ち返すタイミングが掴めなかった。脚が止まり、アッパーで顎を跳ね上げられ左右のボディを打たれる。

倒れはしない。大丈夫だ……
打たれながら耐え続けていたが、ガードの間を割られて被弾を重ねる自分の姿を見かねてレフェリーが割って入った。

***

3ラウンド2分48秒。TKO負け。
ああ、終わった。
茫然として相手の勝ち名乗りを聞くとリングを降りた。力が入らず階段を降りる足元が不安定だった。自分が効いていたことを再認識した。

控室に戻るとまず医務室に行って検診を済ませ、グローブとシューズを外してシャワーを浴びる。
「すみませんでした」
しきりに繰り返す。それ以外の言葉が見当たらない。
自分のためだけに今日この場に来てくれた人たち、携わってくれた全ての人たちへの申し訳なさが猛烈に湧き上がってくる。
酷い試合をしてしまった。

こんな試合をするなら辞めた方がいい……
試合に関わる人に失礼だ……
後悔と自責の念が押し寄せてきた。
もっと出来たんじゃないか。ボクシングを舐めていたんじゃないか。試合が決まってからの数ヶ月間、ボクシング一本に尽力せずに興味の範囲を広げて悦に入っていなかったか。
やってしまった。
後悔先に立たずとの古くからの言葉があるけれど、自分はあまりに多く繰り返す。

次はない。
一旦リセットして、全力で打ち込む環境を整えなければ再出発できない。
それでも自分はボクシングが大好きだ。後悔と共に実感してばかりの自分の愚かさにも慣れてしまった。
欠けた愛では勝利の女神は受け取ってくれない。

***

試合から一か月が過ぎようとしていた。
先日、井上尚弥チャンピオンの鮮烈な試合をテレビで見ては彼がジムで猛烈なスパーリングを繰り返していたのを思い出した。本物と自分との差は、才能以前にボクシングへの直向きさだったんじゃないか。

すっかりダメージも抜け、ぼんやりと自分のボクシングの行く末を考える。終着点はまだ見えない。

ただそれでも、今日も明日も人生は続く。
愛読する綿矢りさ氏『ひらいて』から、お気に入りの一節を思い出して自分に言い聞かせて、僕はまた前を向く。
さあ、見えない明日をどう生き抜こうか。

正しい道を選ぶのが、正しい。
でも正しい道しか選べなかったら、なぜ生きているのかわからない。

※写真はボクシングモバイル様より

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