2020年9月24日、大切な人たちへの近況報告/「つまり『喜び』でいることが最高の『布施』ってことやね」

大切な友人各位へ

一年前には想像もできなかった日々ですが、お変わりないですか?

おかげさまで先日、人生38周目に入りました。いつも見守ったり、支えたり、一緒に遊んでくれてるみなさまへ、あらためて感謝を申し上げます。

ひさしぶりなので、ついでに近況報告ですが、いまは東京をはなれ、家族で全国を旅しながら移住先を探しています

ちなみに、本日まで北海道は長沼町におりました。いまは新千歳空港から成田空港にむかう飛行機の中で、このメッセージを書いております。雲の上は快晴です。

さて、以前にこちらのアカウントで皆さんに相談させてもらった人間不信の件について、その後のご報告をさせていただきます。

この半年SNSは見ずに、ごく少数の方々との対話を通じて、自分の心の奥底へ谷を深く降りていきました。

そのおかげで谷底を打って、ようやく徐々に谷を再び登り始めています。

この半年で何が変わったのか、といえば、いろいろと自分の奥底にあった誤解やら認識のずれやらに気づけた、と思っています。

そして、それらに気づいたいま、過去を振り返ると、なんというか、穴があったら入って埋めてコンクリートで固めてやりたいくらい恥ずかしいな、とも思ってます。

とくに大きな気づきを一つあげると「他者に与える」ということについて

自分がこれまで大きな誤解をしてたことに気づきました。

そのせいで、これまで色んな人達との間で大きなコミュニケーションのずれを生んでたんだなと、ようやく気づいた次第です。

そもそも自分としてはこれまで「他者に与える」という考え方の前提に、そもそも「自分は関係の総和」という考え方をしています。

だから、関係の総和である以上、関係している相手が幸せにならなければ、自分は幸せになれない、と考えてました。

だから、これまでは、他者に対して、その人が幸せになるために必要なものやコトを与えること、それを絶対に実現すること、にものすごい執念をもってあたってきたのが、この7年くらいでした。旅から帰ってきて以降ですね。

そして、そういう気持ちでやってきた結果「思い通りにならない」相手との関係に憤ったり、「一方的に利用された」という感覚をもったりすることになってきたわけです。

自分の何がずれてんだろう?

この半年は、そのことをずっと考えてきたんですが、先月8月の頭ごろ、愛媛県は松山の三津浜という町に滞在してるときに、ぱっと気づけました。

きっかけとなったのは、とある雰囲気の良い宿でお世話になってたときに、そこにいたまだ二歳にもならないくらいの小さい子が、いろんな客や地元のひとから可愛がられてるのを見かけことでしたり

その様子をみてて、「あら?そういえば、なんで赤ん坊は、相手に対して何も与えてないのに、こんなに可愛がられるんやろう?」とふと思い、そこから考えてみて、なるほどな、と気づかされました。

というのも、ちいさい子どもは、ピュアに自分のやりたいことやって、それで喜んで、楽しんでいる。ただ、それだけの存在なんだけど、その状態自体が「元気」なわけです。

その元気なエネルギーって周囲にとっては太陽みたいなもの。

だから、小さい子が、何かに熱中したり楽しんだりしてるのって、そのこと自体が、周りにとってはエネルギーをもらえる出来事なんだな、と気づかされました。

だから、多くの大人たちは、子どもに見返りをもとめずにアレコレやるんだと思います。

ここで、大切なポイントは、まず「子ども自身には『何かを誰かに与えよう、誰かを喜ばそう』という意図や目的がまったくないことです。

そして、もうひとつは、子どもは「ただ純粋に『自分が楽しい、面白いこと』に集中してるだけ」ってこと。

そして、よくよく考えてみれば、そういうただ無邪気に無心に楽しもうとするあり方こそが、唯一、他者(与えられたがわ)を依存させず、また同時に(与える側にとっても)見返りを求めないGIVE=「布施」になっている、ということにも気づきました。

そして、そのことに気づいてから、こんどは自分のいままでを振り返ると、これまで自分がいかに真逆のことをやってきたのか、が分かって愕然としました。

とくに自分のことを大切におもってくれている、近しい人達に対して、

これまでの自分は「アナタが幸せにならないとオレの幸せはないから、まずはアナタが幸せになってくれ、そのためならなんでもするから」と、結構こわばった、キツそうな顔しながら言ってた気がします。

たぶん、コチラのの苦しそうな顔をみて、返って僕のことを大切に思ってくれてる人ほど、どんどん辛くなっていってたんだろうな、という気もします。

いま思えば、僕の抱えていたそういう考え方のズレになんとなく気づいていた、ごく親しい何人かからは、つどつど「そもそもケンタロウは何がやりたいんだ?」って問われることもありました。

けど、その都度、自分が「いや、だから、何度も言ってるように、おれはみんなに幸せになってほしくて、そのためなら、オレはどれだけ苦労したって構わんって言ってんじゃん!なんで同じこと何度も言わせんだよ!」とキレ気味に返す、だから会話がずっと、平行線をたどってたんだなと思います。

いま思えば、その人達が僕に伝えたかったことには、実際はカッコ書きがあって、「(なんでお前はそんなにつらそうなんだ?そんなにつらそうになるくらいなら、オレらのことはいいから、まずオマエが楽しく幸せになれるために)ケンタロウは何がやりたいんだ?」って聞いてくれてたんだなと。

こんな単純なことに気づかず、ほんと恥ずかしいし、ご指摘頂いていた皆さんには、ほんとに何度も言わせて、すんませんでした、という気持ちで一杯です。

とはいえ、そういった自身の奥底の認識のズレに気づけたおかげで、いまは、ようやく自分が楽しいと思える場所、コト、人、モノ、をまず大事にしようと思えています。

そして、あらためて、自分にとって楽しいこと、嬉しいことは、結局、他の誰かが喜ぶこと、楽しむことで成立することばかりだから、ほとんど今までとやろうとすることは表面上は変わらないな、とも思ってます。

とはいえ、何を先に考えるか?で意味や選択は大きく変わると思います。

いままでは

「相手を喜ばすために、何をするのか?」

と考えてましたが、これからは

「自分が喜ぶために、相手も喜びそうな何かをしよう!」

と考える。そうすると、これまでとは違った選択肢や、言葉、行動が、見えてきます。

そのことに気づけて、本当によかったなと思うし、逆に、もしあのまま、2018年以降も、それまでやってたことが、表面上は順調にいってたら、この根本的で重大な誤解をずっとしたまま人生を明後日の方向に突っ走ってたと思う、そう考えると、ほんと、あそこで挫折させてもらえてよかったな、とつくづく思います。

そして、そんな風に、自分が喜ぶこと、楽しいこと、嬉しいことから選ぶ、ということを意識し始めたら、これまで抱えてきた「人間不信」といのも、全然大した問題じゃなくなってきました。

というのも、自分にはやりたいこと、いっぱいあるし、好きな場所とかモノもたくさんあるし、一緒に遊びたい人もたくさんいる。

そして、その人達と一緒に何かを作ったり、考えたり、遊んだり、めし食ったり、酒のんだりしたい。

自分が喜ぶ、そういうモノやヒトやコトを毎日、瞬間、瞬間、大切にしようとするだけで、残りの人生いくら時間があっても足りないな、と思ってます。

いまは、そんな風に思えてきたんで、とても元気です。

この他にも、そもそも「自分が他者に与えなければならない」と思ってた背景には「自分が他者を差し置いて幸せになってはいけない」という考え方をもってた、とかいろいろ、谷の底には、気づきがザクザクあったんで、また、興味があれば、酒でも呑みながら、語らいましょう。

この二年にわたる、内省のプロセスの機会を見守ってくれた、皆さまには、あらためて感謝しています。

そして、いまあらためて、いまの自分にとって最も大切なものの中には、何一つ自分で計画して作ったり獲得したものがなくて、全部、ご縁で与えられたものばかりだということが、なんというか、とてつもなく大きく、とてつもなく有り難いです。

あらためて、みなさん!出会ってくれて、生まれてきてくれてありがとう!

ということで、これから先、またどこかで出逢って、一緒にめし食ったり、酒のんだり、遊べるのを楽しみにしてます。

だから、それまで、皆さんが日々元気で、毎日たくさん笑って過ごせることを、いま心から祈ってます。

ではまた。

9月吉日@東京は市ヶ谷より

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