芸術は、「私」と「今」と「この世界全て」のかけがえのなさを教えてくれます。

仏教では最初の数百年間、釈尊像は創られておらず、その原因は諸説あるものの解明されてないそうです(田辺 2010)。

私は仏像や仏画を観ると心が安まりますので「なんでだろうなぁ?」と思っていたのですが、最近、『人工知能に、ある人のデータを大量に読み込ませることで、その人と同じ言動をさせる』という技術の記事を見て、

「これは、現代の偶像と言えるのではないだろうか?そしてこの現代の偶像は、人間が複製可能であることを示すことで、個々の人間のかけがえのなさの否定につながるのではないか?」

と感じ、そこから、

「偶像崇拝は、仏様あるいは人間のかけがえのなさの否定につながるので、禁止していたのではないか?」と思うようになりました。

(釈尊や、仏性を持つ人間の尊さは複製不可能であるのに、偶像を釈尊の代わりとして、つまり同じ存在として崇拝することは、その複製不可能性の否定につながるとされたので禁止されたのでは…と思ったのです)。

しかし、同じ技術が個々の人間のかけがえのなさに気付くきっかけにもなるかもしれません。

もしも人工知能やロボットの技術が進んで、自分以外には本物かどうか分からなくなることに遭遇したら

『自分以外には区別がつかなくても、私には、このロボットが私ではないことがはっきりと分かる。すなわち私には、決して複製できない「私」がある』

と思われて、決して複製できない「私」とは何かについて考えているうちに

『私の中の複製出来る部分は本当の私ではないので、執着するべきではない(無我)、私の中の絶対に複製できない部分(真我)を大切にするべきである。

そしてそういった絶対に複製出来ないものは、私以外の全ての存在にもきっとある(自分以外の存在との一体感を伴う深い共感的体験、例えば、合奏や合唱における一体感や、絵を描いている「自分」と描かれている対象との一体感等から直観的に理解された「一即多、多即一」)。

また、時間軸においては、この瞬間も、決して繰り返すことのない、つまり複製できない「今」であり、大切にすべきである(一期一会)。』

といったことを理解し、

『「私」や「存在するもの全て」そして「今」のかけがえのなさの肯定(悟り)』つながるんじゃないかな…と妄想したりしてます。

さて、言葉やデータで記述可能なものは複製可能です。例えば人工知能でインターネット上に、ある人の複製を作るとき、それはプログラミング言語や機械言語で記述されていますし、ある化学式で記述された化学物質は、その化学式で記述された物質を合成することで複製出来ます。

逆にいうと、言葉やデータで記述出来ないものは複製不可能です。

(少し脱線しますと、確率論的な要素が記述やデータに含まれる場合は、起こった出来事や状態そのものを再現つまり複製することはできません。しかし、その記述やデータが示す確率論的な要素を含んだ状態は複製出来ます。例えば「コインを投げたら表が出た」という記述から再現できるのは「コインを投げたら2分の1の確率で表が出る状態」です。これは、その「コインを投げたら表が出た」ときの、その出来事に関わる全てを観測してデータ化し記述していないからです。つまりこの場合は言葉やデータで記述した範囲のみ複製したということになります。)

従って『「私の中の絶対に複製出来ない部分」とは何か』を言葉やデータで記述することはできません(不立文字)。

記述することは出来ませんが「それはある」と指し示すことはできます。

例えば、他者には絶対に区別がつかないレベルの、完全な自分の複製を前にして、他者に「この複製には再現されていない部分があり、それは○○である」と言うことはできません(そもそも他者に識別可能な差がないのですから)。しかし、「君には区別が出来ないだろうが、本当の私はこの私である」と指し示すことはできます。

音楽も「言葉やデータで記述できないことを表現する」ものであるとよく言われます。もちろん物理現象としての音楽は記述可能ですから、録音してデータという形で記述すれば複製可能です。しかしそれはちょうど、ある人そっくりに作られたロボットが、その人の真似をして「本当の私はこの私である」と言っているのと同じであり、それは本当の意味で元の音楽を複製したとはいえません。

録音された音楽は、元の演奏とは別の音楽なのです。

そして、その録音された音楽にも、元の音楽に負けない「かけがえのなさ」が再生されるたびに生まれます。再生が終わるたびに、その再生中に在った「かけがえのなさ」は永久に失われ、次に再生されるときは、また別の「かけがえのなさ」がその再生中にのみ、そこに在ります。

つまり「複製」は存在せず、私達が「複製」と思っているものも、全て、かけがえのないオリジナルです(そう考えると、仏像や仏画も、偶像ではないということになります。)


音楽が「それはある」と指し示しているものは「今」この瞬間にしかなく、言葉では表現できない「何か」です。

これは絵画でも同様です。絵画が「それはある」と指し示しているのは、その絵を観ている「今」この瞬間にしかなく、言葉では表現できない「何か」です。

そして、音楽や絵画等の芸術が表現しているのは、その「何か」の尊さ、かけがえのなさです。

芸術によって、悟りが開けるかもしれません(*^_^*)


参考文献

田辺勝美(2010) インド人仏教徒は何故、仏陀釈尊像を創らなかったのか? 南アジア研究第22号

※上記以外にも何冊かの哲学書や仏教についての本を参考にしましたが、それらは私の問題意識に、やや強引に引き寄せて解釈した後、参考にしました。そのため、もし、それらの文献を参考文献として挙げると、それらの文献についてオーソドックスな研究をされている方々から『その解釈では参考にしたと言えない』と批判されそうですので、参考文献には挙げておりません。



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