「『本当』の自分を表現することを追求すると、最後は意味不明の言葉を叫ぶしかなくなる」ということと音楽

心理学に影響を与えた哲学の一つに社会構成主義というものがあります。

これは「私達が経験している『現実』は、この社会によって作られたものであり、実体を持たないのではないか?」と言う考え方です。

これを我々が『現実に経験している』と思っている感情を例にして考えてみます。

人間が動物達の行動を観察している状況を想像してください。

動物達は敵に遭遇したときに「Fight or Flight (闘争あるいは逃走)反応」という身体反応を示します。これは、戦う事になった場合にも逃げる事になった場合にもどちらにも対応できるように、酸素を多く取り込み心拍数をあげて血流を増やす等、素早く体を動かせるようにする反応です。

この反応が起きているときの動物の『感情』は何か?と観察している人間に訊いたとすると、この動物がこの反応の後、逃げたならば『恐怖』、戦ったならば『怒り』と、その人は答えると思います。

しかしながら、当の動物にとっては、戦うか逃げるかを判断するその瞬間までは、ただただ「Fight or Flight (闘争あるいは逃走)反応」による体温の上昇や、早くなる鼓動等を感じているだけであり『恐怖』や『怒り』の区別などありません。

(少なくとも観察している人間には、どちらかを区別できません)

このことは、人間が自分自身を観察する場合にも当てはまります。

自分自身を観察する場合でも、脅威に出会ったときの身体的反応のみでは、『恐怖』と『怒り』を区別することはできません。

身体的反応を、自分自身でどう解釈するかによって、自分の感情が決定するからです。

例えば、有名な吊り橋実験は『身体的危険から来るFight or Flight 反応を、恋愛感情だと解釈したことによって、好意を感じた』のであのような結果になったのです。

つまり、我々の感情は、自分が出会った環境の変化と、それに対する自分の身体的反応を、言葉を使ってどう解釈したか?によって決定するものであり、言葉は社会的に作られたものですので、感情も社会的に作られたものだということになります。

(最近流行っている認知行動療法も、同じ考えに基づき、『現実を解釈するときの認識の枠組み』である言葉を変化させることにより、その後の感情を変化させ、感情の結果としての行動をより適応的なものにしようとするものです)

このように感情は社会的に作られたものであり、さらに、その表現の仕方も社会的に構成され規定されています(例えば、社会的に許容されない表現の仕方で感情を表現すると、さまざまな社会的な制裁が加えられます)。

従って、自分の内的な感情の表現と思っているものは、社会的に作られた台本のパロディを演じているだけになります。

心の奥に『どうしても分かってもらいたい本当の気持ち』があるとき、それを伝えようと頑張れば頑張るほど、嘘くさい演技をしているような気持ちになってしまうのはこのためです。

それ故、もしも本当に、自分の内面を表現したいと思うならば、感情以前の身体的反応、すなわち、言葉に出来ない衝動をそのまま外に出す、具体的には意味不明な言葉を叫ぶしかありません。

うぎゃああー!!

そう考えると、世界中の音楽に「ここの歌詞に意味はない」とされる謎の言葉が入っているのは上記の理由によるものであり、その意味のない言葉にこそ人間の本当の姿が表現されているのかもしれません。

(あるいは、歌詞のない器楽演奏の部分や、器楽曲にこそ、人間の本当の気持ちが表されているのかもしれません。もっとも「こういう感情を表現するときはこういう演奏」という共通認識ができた場合は、それは社会的に構成されたものとなります。音楽家が常に新しい表現を求めるのは、このためです)

つまり『何か意味がある、あるいは、あったのではないか?』と考えることは無意味であり、意味がないことにこそ意味があるということになります。

ダバダバダ―♪

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