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「編集者」と「ビジネスパーソン」は相性が悪い

新卒で入った会社は、1年半で辞めた

ぼくはいまフリーランスのライター、編集者として働いています。

会社員の経験は1年半しかありません。

「新卒で1年半だけ会社員やって、いきなり独立してすごいだろ」って気持ちはマジで微塵みじんもなくて、どちらかというと「会社員をこれ以上やるのが限界だった」って感覚のほうが近いです。

違う言い方をするなら「あ、ぼくは優秀なビジネスパーソンとして活躍するのは難しいかもな」と思って、会社を辞めました。

会社を辞めたのは、去年の12月。

このnoteでは、ぼくがこの独立してからの5ヶ月で感じた「ビジネスパーソンに求められる能力」と「ライター、編集者に求められる能力」の違いについて、大きく3つに分けて書いていきたいと思います。

「事実」か「解釈」か

最初にすこしだけ整理しておくと、このnoteにおける「ビジネスパーソン」のイメージは「組織でたくさんの人と協力しながら、プロジェクトの進行を管理したり、事業を成長させたりする人」みたいな感じです。

「ライター、編集者」は、ざっくり言うと「コンテンツをつくる人」。この先は、毎回「ライター、編集者」って書くとすこしくどいので、表記は「編集者」だけにします。

ビジネスパーソンと編集者、それぞれの定義はそこまで厳密なものではないので、その点はご容赦ください🙇‍♂️

…という前提をふまえたうえで「ビジネスパーソン」と「編集者」に求められる能力の違いで、ぼくがいちばん大きいなと感じたのは「事実と解釈の取り扱い」でした。

ビジネスパーソンに求められるのは、事実と解釈を分けたうえで「事実」を取り出すこと。

たとえばなにか顧客とのトラブルがあったとき、部下が上司に真っ先に報告すべきは「事実」です。

サーバーにエラーが起きたことが原因で、顧客に提供していたサービスが止まっていた「時間」はどれくらいだったのか。そのサービスの停止によって、顧客に「どれくらいの金額」の機会損失を生んでしまったのかなど。

いっぽうで顧客が「どれくらい怒っているのか」という解釈は、まったく必要ないといえばウソになりますが、報告するのは少なくとも「時間」や「金額」といった事実のあとです。

上司にとって、部下の「解釈」を頼りに先走った意思決定をすることほど、恐いことはないと思います。

編集者はどれだけ「解釈」できるか

いっぽうで、編集者には「解釈」の力が求められます。

ここでの解釈は、主に「相手がどう思っているのかを想像すること」という意味です。

別に趣味であれば、ぼくがいま書いているこのnoteみたいに、とにかく「自分が思っていること」を書くだけでいいのですが、仕事における「コンテンツづくり」は、届けたい人に届けたいメッセージを届けることが大切。

そのために「届けたい人」がどんなことを思っているのかを想像しながら、どういう届け方をすれば、自分たちの届けたいメッセージを届けられるのか。

そこに求められるのは圧倒的な「想像力」であり「解釈力」です。

この前、すごく実績のある編集者さんと話していたとき「編集者には、メンヘラ的な部分が必要だよね」って言われました。

「メンヘラ」もすごく広義的な言葉ではあるのですが、話の流れ的に「解釈力」と同じ意味で使っていたと、ぼくは解釈しています。

「解釈」はときに話をややこしくする

会社員時代のぼくは「いま求められているのは事実と解釈のどちらなのか」の区別がまったくできなくて、めちゃくちゃ苦労しました。

「事実で判断してものごとを進めるべきところで、不必要な解釈を混ぜ込んで、ものごとを進めるスピードを遅くしていること」がよくあったんです。

たとえばぼくとAさん、Bさんの3名でプロジェクトを進めていたとします。

Aさんがプロジェクトのリーダーで、ぼくがサブリーダー的な立ち位置だった場合、Aさんから「Bさんにこのタスクをお願いしておいて」的な伝言を預かることもあって。

そこでぼくは「あ、このタスクをBさんは嫌がるだろうなあ」って勝手に解釈しちゃうんです。そしてぼくが代わりにそのタスクをやっちゃうんです。

リーダーのAさんは、個々の得意領域やチーム全体のリソース配分的な観点で「Bさんに任せること」が最適だと判断してぼくにそう指示しているのに、なぜかぼくが勝手に巻き取ってしまうことがありました。

結果的に、そのタスクは本来Bさんさんが得意なのだったから、ぼくがやったことによって完成度は低くなるし、進行も遅くなるしで、みんながアンハッピーになるんです。

そして蓋を開けてみたら、実はBさんはそのタスクを全然嫌がっていなかった、みたいなことがよくありました。

「幹」か「枝葉」か

ビジネスパーソンと編集者に求められる能力の違いで、2つ目に感じたことは「幹と枝葉のどちらに注目するか」です。

ビジネスパーソンに求められるのは「幹」に注目する力です。

大切なのは「結論から話すこと」。会議で飛び交う言葉は「要するに何が言いたいの?」。

見つけるべきは「ボトルネック」。設定するのは「KPI」。

これらは、ビジネスとしてめちゃくちゃ正しいです。

事業や組織の成長にあんまり関係ないことに時間や人員を割いていたら、会社はつぶれてしまいます。

「枝葉」にこそ意味がある

いっぽうで編集者に求められるのは「枝葉」へのこだわりです。

コンテンツをつくることをお仕事にさせていただいているぼくが言うのも変ですが、ぶっちゃけほとんどのコンテンツの言いたいことは30文字以内に収まると思います。

「失敗を恐れず行動しよう」とか「小さな成果をコツコツ積み重ねていこう」とか。

じゃあそれでいいじゃんかといえばそうではなくて、コンテンツをつくる意味のひとつは、その届けたいメッセージをちゃんと届けたい人に届けたい形で、届けることだと思っていて。

たとえばその「失敗を恐れず行動しよう」とメッセージ(=幹)に説得力を持たせるために、具体的に「ぼくは思い切って起業した」みたいなエピソード(=枝葉)を入れるのがいいかもしれません。

もっと枝葉の話をすると、たとえばジブリの映画って、映画によっては「自然を守ることの大切さ」がメッセージとして隠されていると言われることもあります。

でもたぶん、ジブリの映画を観て最初に抱く感想が「自然を大切にしよう」っていう人は、そんなにいないと思うんです。

それよりは「画がきれいだったな」っていう表現とか「最後あの2人が結ばれて良かったな」っていうストーリーとかへの感想を最初に言う人が多いでしょう。

でもたとえば映画を観た人の100人に1人とか、子供のときはそんなことを感じなかったけど、大人になって改めて観たらそう思ったとかでも、なんらかの形でいずれどこかで「自然を大切にしよう」って思う人がいれば、それで十分すぎると思うんです。

もっと言ってしまえば「自然を大切にしよう」という思いを1ミリも抱かなくても「なんかワクワクしたな」と楽しんでもらえれば、コンテンツとしての役割はすでに100点だとも思います。

コンテンツは「枝葉」にこそ、意味があるんです。

「枝葉」にこだわりすぎると、話が進まない

この「幹」と「枝葉」のところでも、会社員時代はめちゃくちゃ苦労しました。

会議をしていても、ぼくはどちらかといえば「枝葉」の部分が気になってしまうことが多いんです。

たとえばある事業で、各指標を数値化するにあたり、若干定義が曖昧な指標がありました。

ぼくは「その定義だと、Aのケースはカウントするんですか?Bのケースはカウントするんですか?」とめちゃくちゃしつこく質問しまくっていたんですね。

そしたら上司のひとりから「いまはその定義の厳格さは重要ではないから、その議題でみんなの時間を使うのは適切じゃない」と注意してもらいました。

いまなら、その上司が言いたかったことを理解できます。

ただ当時のぼくには「本当に必要な幹以外は、削ぎ落としていくことも大切なときがある」って感覚が皆無で「いや、そこちゃんと明確にしなきゃダメだろ」みたいな感じでモヤモヤしていました。

「正しさ」か「面白さ」か

そして最後、ビジネスパーソンと編集者に求められることの3つ目の違いは「正しさと面白さ、どちらが正義か」です。

ビジネスパーソンには「正しい」ことが求められます。

「正しい」をすこし違う言い方をすると、ビジネスパーソンって「適切とされる言動」がある程度明確なんです。

たとえばマーケティングとかコンサルとかで使われる、いわゆる「フレームワーク」は「3C」とか「MECE」とか、もうめっちゃあります。

もうすこし身近な話でいくと、たとえば「レスは速いほうがいい」とか「MTGは事前にアジェンダを設定してから始めたほうがいい」とかっていうお作法というか「ビジネスパーソンの振る舞いとして、これをやっとけば外さない」というものもあります。

それを着実にやっていけば「絶対に大ヒット!」とか「絶対にマネージャーになれる!」とかまではさすがにいきませんが、少なくともプロジェクトが完全に停滞してしまったり、会社員をクビになったりすることはないはずです。

コンテンツは「面白いこと」が圧倒的に正義

いっぽうで、編集者に求められるのは「面白いかどうか」。

もちろん「コンテンツのつくり方」みたいな本とかノウハウとかも、世の中にはたくさんあります。

でもそれ通りやってめちゃくちゃスベることなんて、ザラにあります。

逆にそういったセオリーを無視しても、結果的にめちゃくちゃ面白いコンテンツをつくることができれば、そちらが圧倒的に正義です。

むしろ、みんながセオリー通りにやるから、ここではあえてお作法を破ったほうが面白いという場面もあります。

「正しい」と「面白い」はどこかで対立する

この「正しさ」と「面白さ」のところでも、会社員時代は苦労しました。

たとえば会社員時代は、毎日「日報」を出すルールが社内にあったんです。

そこでぼくはある日、ちょっとしたオマケ文章みたいな感じで、自社の取締役をすこしイジる感じのことを書きました。

その日、取締役のひとりがちょっとしたドジをして照れ笑いをしつつ、その場にいた数人のメンバーで一緒に笑う、みたいな場面があって。

ぼくがその様子を、すこし面白おかしく日報に書いたんです。

そしたらその日報を読んだ別の先輩から「今日の日報で取締役のことイジってたけど、あれ書いてふじもんに得あるの?」と個別で連絡が来ました。

要は、その先輩はぼくのことを心配してくれていたんです。「それを日報に書いて社内全体に広めて、その取締役が恥ずかしい思いをしたら、ふじもんにとってマイナスだろ」と。

その心配自体は、めちゃくちゃありがたかったです。

ただ、ぼく的には「昇格に響くかも」とか「部下は上司をイジるべきじゃない」とかっていったビジネスパーソンとしてのセオリー的なものは、どうでもよくて。

いや、どうでもいいといったらウソになりますけど、それ以上に「新卒1年目のペーペーが、取締役をイジっているっていう構図が面白いかも」っていう好奇心が勝ってしまうんですよね。

ぼくは「優秀なビジネスパーソン」になれなかった

念のために言っておくと、ぼくのいた会社が悪いってことではまったくなくて、単純にぼくに「優秀なビジネスパーソンなる素地」がなかっただけです。

あともちろん、きょう書いた話は「極論」です。

二元論的な話は、たいてい「グラデーション」であり「場面に応じて使い分けられる」のが最強なんです。

編集者でも、普段のやりとりから「解釈」ばっかりしていたら、全然話が進みません。

「記事を1本完成させること」をひとつのプロジェクトと捉えれば、ときには「枝葉」を切り落として、物事を前に進めることも大切です。

いくら面白いからといっても、だれか特定の人の人格を攻撃することはしませんし「この表現は、潜在的な偏見に影響されていないかな」などの人としての「正しさ」には一定以上、気を使っているつもりです。

せっかく1年半の間いっぱい苦労したんだから「この場面では事実だけを取り出そう」とか「この段落は正しさ70%で、面白さ30%」とかって感じで、ビジネスパーソンとしてのエッセンスも、必要なところでは混ぜ込んでいこうと思います。

だけど究極的にはやっぱり「優秀なビジネスパーソン」になるより、もっと「解釈」の幅も深さもある人になりたいし「枝葉」が気になってこだわってしまう人になりたいし「面白い」人になりたい。

ぼくは優秀なビジネスパーソンになれなかったし、むしろ「ならなくていいや」とこの5ヶ月で思うようになりました。

いまいる「面白いが正義」の世界は、めちゃくちゃ無慈悲ですけど、めちゃくちゃ面白いです。


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