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今、上昇志向が危ない

こんなnote別に誰も読んでないだろうと思っていたのだが、案外と読んでくれる人がいるようだ。時々感想をいただく。面白いもっと書け、という声が大半である。もちろんマスから見れば砂漠の塵も同然のnoteだが、ただただ面白くて書いている文章を実際に読んでくれている人が"いる"という部分に計量できない価値を感じるのだ。
(我ながらどうしてこう、こましゃっくれた感謝しか述べられないのだろうか。)

先日このnoteを読んだ友人から「福永は哲学者になったら良いのではないか」と感想をもらった。

ここでいう哲学者というのは…多分、まどろっこしいことを考えるのが好きな能力を通じてライフハックとかを編み出し、人の相談に乗ったりして役に立つポジション、という意味である。

なんとなくフツーに会話でつかう「哲学」という言葉にはそういうニュアンスがのっているように思う。「哲学的だね〜」というセリフは大概が「難しい話だね〜」という意味だ。
学問の「哲学」とは似て非なるもの、ではある。

…直接会話をしているとそういうニュアンスがわかる。
表情や声色、目つきやその場の文脈というのは言葉以上に意味を含むものだ。目は口ほどに〜とは言い得て妙。

友人から「哲学者になれば?」といわれて3秒後に思い浮かんだのは以下である。
「相談事があるなら多分、メンタリストのDaigoに頼んだ方が良い」

確かに、というか、高校くらいから友人の相談に乗ることが多く、それは自分の得意分野だとも正直思っている。相談してもらえるのは光栄なことだし、誇らしく思っている。福永のことを「私のメンター」と呼んでくれる人が今でもいる。別にそんな大層なもんではないと思っているが、何かの役に立てているのなら掛け値なく嬉しい。

ただそれとは別に…「そのジャンルの人」になれば?と言われて意識するのは…

もっと有名で、もっと詳しくて、もっと力のある人がいるという事実だ。

これはインターネットなどで情報のスピードが爆速になったことに由来していると思う。

場所に関わらず全ての情報がノータイムで広がっていく。
「そのジャンルの人」の中でこの世界で最も有名で、最も詳しくて、最も力を持っている人が一瞬にして明らかになるのだ。
(日本にはまだ言語の壁があるけど)

中間層、いわゆる「井の中の蛙」は死滅する

小学生の頃、任天堂オールスター大乱闘スマッシュブラザーズという長く不穏なタイトルの対戦ゲームが流行っていた。
当時、友達の家に集まったらたいていはこのテレビゲームに興じるのが主な遊び方だった。

で、やっぱりゲームがうま〜い奴ってのがいるのである。
そういう奴は、尊敬の眼差しでもって一目を置かれる。
スマブラが上手いのはとってもカッケーことなのである。

で、今。
略して「スマブラ」は任天堂の代表タイトルゲームとなり、20年以上が経った現在でも、大流行中のNintendo Switchで「スマブラシリーズ」の新作が作られ、たくさんのユーザーに楽しまれている。

今ではYoutubeを見れば世界大会の対戦ムービーが誰でも無料で観られる。
そこで繰り広げられるのは当然、文字通り世界で1位2位を争う真の匠による攻防だ。

もう、スマブラがうまいクラスメイトに注目の光があたることはない、のである。

さて、小難しいことを考えるのが好きならば、哲学者(というかライフハッカー)になれば?という提案。

この提案にも同じことが言える。
「相談があるならDaigoに相談した方が良いんじゃない?」

一旦まとめよう。

井の中の蛙は死滅する
中間層、というか、いわゆる「得意な人」程度に、なんの需要もないのだ。
だって「世界で一番できる人」が、一瞬にして知られるのだから。
場所も時間も関係なし、グローバルに広まる。
インターネットがそれを可能にした

…でも。
たとえば村の椅子職人
この村で椅子をつくってもらうなら、この人だ、という職人。

今よりクローズドだったはずの村世界を回していたのは今でいう「井の中の蛙」たちだったと思うのだ。
つまり、好きで得意なことを、小さな社会で行う人
スマブラがうまい20年前の小学生のように。
クローズドな世界の職人は村のみんなから一定の賞賛と信頼を得て、得意分野に励む。そういう構造。




「上昇志向は危険」
これはここ数年の福永の個人的なテーマである。自戒、ともいう。

上昇したい、というのは裏を返せば「現状の欠けたる部分を見つめる」こと。

つまり上昇志向とは「負のモチベーション」である。

じゃあその反対。
「正のモチベーション」とはなにか。
これは好きで好きでしかたなくて、時間があっという間に溶けてしまう、みたいな、やらずにはいられないことに費やすようなモチベーションのことだ。
欠けているからやるんじゃない。やりたいからやるのだ。
言い換えるなら好きのモチベーション、もしくはのモチベーション。

福永は元々生粋の負けず嫌いであり、負のモチベーションの取り扱いには長けていると思う。長けているというか、呪われていると思っている。

そうやって生きてきて30余、思うのだが、上昇志向は危険なのだ。

欠けたるを埋めていく。
この行いは究極、世界で一番になるまで終わらないのだ。
上記の通り、世界で一番できる人が、パッと見て明らかだから。
福永なんかより、Daigoの方が絶対頭いいっす。
その人より欠けているのが、見るも明白だから。

特にインターネット以降の世の中で大切にすべきモチベーションは、欠けたるを埋めるようなものではなく、楽しくてやめられないようなものを延々行う、という「正のモチベーション」である。
さもなくば、まあ、病んでしまうに違いない。



ここに最近新たな視点が加わった。
なんかのYoutubeで社会学者の宮台真司さんがいっていた。

近代化とは、合理化である。
合理化とは、計算可能化である。
・計算可能になると、複雑なことをシステム化できるし、そこに資本を流し込むこともできて、経済も発展する。

つまり近代化というのは「人間が編み出した便利ツール」だったはずだ。
これは便利ね〜と思って導入した社会システムである。

しかし、今や。
ツールだったはずのシステムに、人間の欲望・感情の方が食われている。
システムが強くなりすぎたのだ。

政治家が守銭に走るのは当然である。そのほうが合理的なので。
計算可能な合理性を追求できる人がこの社会でエリートたりうる。
サッカーで手を使ったら活躍できないのと同様に、この社会で合理性を追及できなければ活躍できない。
システムが強い場合の理にかなった生存戦略になる。

お金がたくさん欲しい。
いいねがたくさん欲しい。

人々が「合理化によって計算可能になった価値」を追い求めるようになる。

こうして「計算不可能な価値」は覆い隠されてゆく。

例えば、スマブラをやるのが好きで好きでしょうがないとして。
でも、そんなことをやっていても意味がない
「お金」にならないし、よほどの天才でない限り「世界で一番高いレート」も出せないから。
そんなことしてないで、働け
好きでもないことをしろ。社会のために。
あるいは食っていくために

こうして「正のモチベーション」「愛のモチベーション」は覆い隠される。



っていう問題意識から考えると。
「Daigoに相談すれば良いんじゃね?」
「どうせ俺より得意なDaigoさんがいるから…」

いやいや、そうじゃねえんじゃねえか、と思ったのだ。

福永のことをメンターと呼んでくれる人と福永の間にあるコミュニケーションの形は(というか一般に友達とか、恋人とか、あらゆるコミュニケーションは)「交換不可能」で「計算不可能」な価値である。

福永はDaigoより詳しくないし、再生数もない。
力も知名度も見劣りする。"めっちゃくちゃ"見劣りする。

けれど、そこにはなんと!価値が生じる!…のだ。
覆い隠されてしまってみにくいけれど、確かに生じている。

このnoteを読んでくれている人はview数をみるに100人程であろうと踏んでいるのだが(view数を見てむしろびっくりしたけど)これが10000viewされている他のnoteと差し引き-9900ポイント価値が低減している...なんて断じることはできない。
価値にはバリエーションがある。
view数はたくさんある価値のうちの1つである。

読んでくれている人と福永の間には交換不可能な価値の領域が展開されている。

でも…それは見過ごされがちである。
なぜなら、そんなことしてても食えないから。
時間の無駄である。もっと「有益なこと」に時間を使った方が良い
人生は有限だからね。

ここでいう「有益なこと」とは例えばお金を稼ぐ、というような、計算可能で交換可能な価値を生み出すことである。

なぜそういうものを「有益」と呼ぶかというと、社会のシステムがそうだからである。そうでもしないと生きていけない。

…だから、見過ごされがちなのだ。
「計算不可能な価値」や「交換不可能な価値」、いや、もはや価値なんて角張った言葉で呼ぶことすらはばかられる、もんやりとした「良さ」たちが、見過ごされている

さて、しかし。
前述の通り元々システムは「便利ツール」であったはずだ。
便利だから人間が作り、右手に持って使用するための道具
でも、今では、システムが土台で、人間がその上で踊っている
システムに寄りかかり、依存し、自らの欲望すらシステムの要請に染め上げてしまう。あるいは染め上げない限り生きていけない
これは貧しいことである。
マックスウェーバーに言わせれば「没主体」
それを宮台真司が言い換えたのが「クズ」である。(言葉強…多分わざとそういう言い回しを選んでますよね)

政治家が守銭に走るのは当然である。そのほうが合理的なので。

少し前にそう書いた。
その通り。だが、システム・合理性に染め上げられた欲望をもったエリートはエリートでも何でもない。宮台さんの言葉を借りれば「クズ」である。
クズかどうかはさておいても、少なくとも多面的/長期的な視野を持っていない

そういう貧しさを打開するためにも…
システムではなく、我々の身の内から、正のモチベーション、愛のモチベーションをごくごく意識的に握り続ける必要がある。



井の中の蛙は死滅する、と書いた。
しかし、今大切なのは井の中にこそある非合理性である。
ごく局所的ではあるものの豊かに機能する特殊性である。

スマブラが好きなら、それをやりまくることによる正のモチベーションを肯定すること、である。
1円にもならないし、1番うまくもなれるわけないのに、肯定する。
「合理的に考えたら愚かなはずの没頭」を甘んじて引き受けるジャンプである。

…その究極系が贈与、っていうことになるんじゃないかと思う。

少し前に友人が見せてくれたYoutubeショート動画があって
「最も幸せなことは、人助けをすることです」
と白髪のおっさんが言っていた。
友人は心を打たれたと言っていたが、福永はヒゲごと心もねじ曲がっているのでぶっちゃけ正直「眉唾適当view稼ぎ系ライフハックおじさん…?」と白々した気持ちでそのおっさんの話を聞いていた。

しかしね...。
計算可能性の中で息苦しくなってしまった正のモチベーションの典型は…確かに贈与、つまり「人助け」かもしれないな、と考え直したのだ。

お金を払う、時間を使う、もうなにしろ、自分の人生のなにかしらのリソースを、全く見返りなく他人に傾けること。
その循環。困っている人がいたら、ごく自然と体が動いて、力になること。

交換可能で計算可能な「お金」に侵食された心は、ついうっかり見返りを求める。そういう癖がつく。
お金っていうのはそういう機能をしたツールだからね。
それはもう、非常に便利で、ないと困るツールである。
でも、ツールはツールである、という線引き。

ちょっと脇に逸れるが「クラウドファウンディング」というのが流行っている。
何か活動をするにあたって資金がない場合に、「こういうことをしたいのでお金をください」と応援を呼びかけること、である。

現在のところクラウドファウンディングでは、お金を支援してくれた人にリターンという名のお返しするのが通例である。
¥3000支援してくれたらバンドTシャツをリターンします。
¥100000支援してくれたらあなただけのための1曲を作ってリターンします。
など。

これでは全然、商品とお金を交換する従来の「売買」と何にも変わんないんじゃないの?と福永は思う。
SDGsを旗印にクリーンなイメージを植えて購買意欲を掻き立てる狡い企業戦略と変わらないんじゃ?…とすらも思う。
商売ときくと汚いムードがあるが、クラウドファウンディング(=応援)となるとなんかクリーンな印象に置き換わる、SDGsも然り)

とはいえ、でも今、確かに時代の動きはじめを感じる。
「応援する」ためにお金を使う。
それによるリターンを目当てとした、交換のための支払いではなく。
贈与としての、正のモチベーションの一種としての行動。
無償でリソースをぶっこむ、という生きがい。
大きく捉えれば、人助け



ここからさらに発展して「恥と愚かを許し合う」という発想もまた、生まれる。

上昇志向とは負のモチベーションであり、「欠けのない高い能力を目指すこと」

能力が高いというのは、失敗をしないこと。卓越していること。

恥や愚かを避け、賞賛や利潤を一手に受けること。

(まあ、今わかりやすくするためにこんな書き方をしているけど、上昇志向の中にも正のモチベーションと負のモチベーションはあると思います。
さらには、グラデーションも。)

でも。
恥をかいてOKとする、愚かなことをしてOKとする。
自分にまずそれを許し、自分だってそうなのだから、同時に他人のそれを許す。

結局。
冒頭に書いたようにシステム化は計算可能ゆえ。
計算可能なのは合理的だから
で、あるならばシステムの上でAIに勝る人はいない
人間は合理性においてAIに勝てるわけがないからである。
極論ですけどね。

恥をかく。
愚かなことをする。

これらはAIには選べない、いわば意味不明の立ち回り・エラーである。
乱数を使って近づけることはできても、AIが美学を持って間違えるのは(少なくとも今のところ)不可能に近いのだ。

矛盾していることや、恥ずかしいことや、下手くそなことや。
そういういわゆる「至らぬ点」の付近に、システムにマスクされ見えづらくなった、今日ずーっと書いているような価値・良さが眠っている

だから、恥をかいて良い。至らなくて良い。
矛盾していて良い。…はい論破〜!じゃないんすよ。
気をつけて、思いやりを持って、考えていたのに、傷つけてしまう。
節約しようと思っていたのに、ラーメンを食ってしまう。
そういうものをAIと対比した場合の人間らしさと呼ぶことになるのではないか。


AIは合理的に行動する。
一方、人間は、今朝なぜ「おーいお茶」でなく「伊右衛門」を買ったのか、説明できない場合がある。
いやー…なんとなく?
ちょうど目に入ったから?
なんとなく、とか、ひらめき、とか、そういう曖昧な状態を行動に移せるのが人間の強みということになるはずだ。
意味のなさをそのまま軸足にできる力。

そうした欠けたる部分に対してお互いの贈与(人助け)が補填し合う
失敗した?OKOK、だってやりたかったんでしょう?
ある人は何かが好きで、得意で、またある人は何かが嫌いで、苦手。
凹凸の間で価値がループする。なんだか良い感じ、が回る。
意味じゃなくて、感じが。
欠けたるを埋めるために躍起になっている場合じゃない。
その凹凸は人と人が手を取り合うためのフックなのだから。
ツルツルの球同士じゃ抱き合えない。

極め付けに遺伝子は形質が散らばるようになっている。これ幸い!
得意不得意はほっといても散らばるのだ。
(こういう、適当なことを雑に科学に紐づけてさもあり得そうな感じで言うのはプロパカンダの常套手段なので気をつけましょう)

友達や恋人との、掛け値のない、交換不可能な、クローズドの価値。
Youtubeの再生数には現れず、誰かが高値で購入したいとも思わないけれど、当人同士にとっては大切なもの
あるいは、自分だけにとって大切なもの

差異が生むコミュニケーション。
をかきあうエラーのストーリー。
ひらめきに伴うカラフルで突飛な行動原理
その燃料は(論理上の)愚かさであるとすら言える。

長々書いたこういうものの呼称が、、ってことになるでしょう。
ラブ、ですよね。
システムの土台に覆い隠されてしまったたくさんの価値を掘り起こせ!

さあ、そう考えると。
眉唾適当view稼ぎ系ライフハックおじさん(失礼すぎ、まじですいません)の言っていることに、正直ぶっちゃけ……同意、である。
前言撤回。素敵なライフハックだったかもしれない。
素敵おじさんと呼ばせていただきます。



余談だが、ここまで書いてきたことはボーカルのピッチ補正にも通ずる。
よくいうでしょう、歌や演奏は、上手いだけではつまらない。って通説。
魂がこもっていれば、技術なんてどうでも良い、なんて。

ここで技術をお金稼ぎ(システム)、魂を贈与(見過ごされがちな価値)に置き換えて捉えようとしてみる。

福永は社会学者でもなんでもないから社会のことに詳しくない。
でも、日がな一日携わっている音楽を介してアナロジック(比喩的)に見るなら、より経験にのせて捉えることが可能なはずだ。

例えばボーカルのピッチ補正に関してだが…やりすぎると、確かに「めっちゃ正確すぎてなんか気持ち悪い!」と感じるラインが存在する。
これはもう、やってみればわかる。明らかにラインがあるのだ。

一方で、音程なんてどうでも良い、とも思わない
TPOがあるように感じる。
つまり、魂オンリーの歌唱はやぶれかぶれのジーパンのようなもので、場面(曲)によってはドレスコードが適切でないのだ。
場面に応じて衣装を弁える/あるいは適切にハズすのがオシャレの醍醐味であろう。

また、技術は枠組みであるとも思う。
魂を正しく発揮するための筋肉、骨格。
きちんとした呼吸法ができなければどんな魂も表せない。

合理性やシステム(=呼吸法やピッチ補正)はツールとして非常に優れている。
うまく使えれば、それによって魂が自由に発揮され、輝く。

とはいえ、合理性やシステム(=呼吸法やピッチ補正)が目的となってはいけない。
そこにはなんらかのちょうど良いバランスがある。

似たようなことを小説家の村上春樹さんが言っている。

「語るべきこと」(=魂)は本来、誰しも身のうちに持っている。
それを発露するには、自分の文体を磨くことだ。
だから自分はまず、自分なりの文体(=呼吸法やピッチ補正)を鍛えた。

…こういうバランスである。



というわけで、上昇志向は危険である。
正確にはシステムに汚染された上昇志向を目的にするのは危険である。
ツールと魂のバランスを間違うと気持ち悪いことになるのだ。

モチベーションの源泉をよーく見る。
システムは合理性が枠である、これは上手に使うにしても…
非合理を見る視力を失うまで垢をつけてはいけない。
これは意識の問題である、と信じたい。

贈与する、人助けする、恥をかく、愚かを晒す、矛盾する、それを許し合う、交換不可能なコミュニケーションを大切にする、好きなことに没頭する、その価値を逐一確認するように気をつける。つまり愛する。

ふむ、並べてみるとどうみても福永の方が「眉唾適当view稼ぎ系ライフハックおじさん」である。

でもここまで書いたことを、福永はいたって真剣に大切だと考える
ちょっと恥ずかしいんすけど、マジで。

せっかくなので今回はライフハックっぽい文章を書いてみることにした。
正直力及ばず、思考足らず、されど、愚かな恥をここに書いて発信する。
それもまた、趣があって悪くはないと信じたいわけです。



本日はこれでおしまいです。

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