見出し画像

泉都と斜都の平熱ー静岡県熱海市

泉都としての熱海

去年、そして今年と師走に訪ねたのは、静岡県熱海市。東京からおよそ100km、伊豆半島の入口に位置するこの街は日本を代表する「泉都」と知られる。

その歴史は古く、「大湯(おおゆ)」と呼ばれる熱海温泉の源泉(間欠泉)が見つかったのは、天平勝宝元年、749年のことである。その後、1602年の徳川家康の来湯を契機に「大湯」の名は各地に広がり、多くの大名や武家が訪ねた。なお、家康をはじめとする来訪者は「湯治」、すなわち疾病への治療を目的とする温泉療法を受けるためであった。

江戸時代後期には、それまでの「阿多美」から「熱海」へと地名が変わり、名実ともに「泉都」となった熱海の発展は、明治以降さらに加速する。武家社会からの転換を迫られた明治時代、国家的な「激変」とパラレルに、熱海にはそれまでの武家に変わって、政治家や豪商が訪ね、さらには別荘や別宅を構えた。岩倉具視、伊藤博文、山縣有朋、井上馨など文字どおり「明治国家をつくった人たち」が相次いで、居を構え、ある時は集い、国家的な議論を行ったのである。いつしか、その様子は「熱海会談」と呼ばれるようになった。

(熱海御用邸   現在、跡地は市役所になっている
市HPより引用)

さらに続いたのは「菊の紋」、すなわち皇室の熱海進出である。1888年、虚弱だった明宮(後の大正天皇)の温泉保養を目的に「熱海御用邸」が完成。御用邸には「大湯」が引湯された。また、1896年には熱海と小田原を結ぶ豆湘人車鉄道が開通。人車鉄道とは文字どおり人力で客車を押して進むもので、4時間を要したものの初めて鉄道が通った意義は大きい(それまでは駕籠で6時間であった)。その後、1907年、豆湘人車鉄道は熱海鉄道と名前を変え、蒸気機関車が牽引する軽便鉄道へと移行し、熱海ー小田原間は2時半程度で結ばれるようになった。さらに1917年には、同区間を結ぶバス路線も開通している。 

(熱海銀座:日本経済新聞より引用)

交通機関の発達に伴う観光需要の高まりを背景に「保養(療養)地としての熱海」は後景化する一方、熱海には旅館やホテル、商業施設など観光産業が多く進出し、観光地へとその性格を変えていくことになる。昭和に入ると「熱海銀座」が誕生。関東大震災(1923年)以降、全国に広がった「○○銀座」だが、熱海のそれは「戸越銀座(東京都品川区)」に次ぐ2番目であったことからも、当時の街の勢いが感じられるだろう。

観光地化に伴い、外部資本の進出するようになるが、後述するとおり「斜都」でもある熱海は、平地が極めて限定的でかつ狭い。この地形的制約は観光施設などを建設するうえで、大きな支障となっていた。そこで、外部資本を中心に熱海海岸の埋立計画が浮上する。海岸を埋立てることで、平地を増やし、各施設を建設するという計画に対し、県は認可するも、景観が破壊されるとして地域住民は反対。互いに譲らないなか、高まりを見せた反対運動は、ついに天皇への直訴に至った。

天皇直訴事件

1929年11月21日、上野公園。陸軍特別演習からの還幸途中の天皇に、22歳の青年が「熱海海岸埋立反対」と題した直訴文を渡した。青年の名前は荒木一作、埋立反対実行委員会の代表を務める人物だ。荒木はその場で逮捕されるも、「不敬漢」を出した責任は重く、県知事、県警本部長、町長など地域の代表者はこぞって「進退伺」を出した。それだけでなく街全体が「謹慎」の雰囲気につつまれ、何らかの形で対立を解決する必要に迫られ地域住民は、埋立面積を若干縮小した内容で計画を受け入れることとした。一方、荒木は4ヶ月の拘留の後、厳重注意処分で釈放されている。

かくのごとく紆余曲折を経るも、発展する泉都。しかしながら、関東大震災後、その中心であった「大湯」が枯渇するという事態に陥った。関係者が復旧を試みるも、明治以降の乱掘削の影響で自噴が減衰していたこともあり、「大湯」が再び噴き出すことはなかった(なお、現在、大湯は人工の間欠泉として整備されている)。

泉都としての根幹が揺らぐなか、1934年、計画の7年を大幅に超える16年の時間を費やすとともに、67名の死者を出した空前の難工事によって「丹那トンネル」が完成。これにより、熱海は東京のみならず関西からも東海道線で訪ねることが可能な街になった。なお、前述の熱海鉄道は1920年に国有化され、丹那トンネル開通後は東海道線の一部となり、現在に至っている。

熱海大火

戦時体制を経て、戦後も熱海は観光地として発展を続けていくが、1950年、熱海史上最悪の災害ともいえる「熱海大火」が発生する。熱海海岸の埋立事業に従事するふたりの工員が博打を打っていた際、そのうちの1人が煙草にマッチで火をつけ、火のついたマッチ棒をそのままガソリンに投げ込むという不始末が原因であった。

(大火に見舞われた熱海:産経新聞より引用)

夕方の5時15分に放たれた火は、この街特有の「強風」に乗って、瞬く間に市街地に拡大。翌日までに、市役所や消防署を含む市域の1/4を燃え尽くしたばかりでなく、979人の重軽傷者を出すとともに、1461世帯が被災する大火となった。その様子は遠くからも見えたようで、当時、伊東で療養中であった作家の坂口安吾は、このように述べている。

火は眼下の平地全部をやき、山上に向って燃え迫ろうとしている。露木か大黒屋かと思われる大旅館が燃えている一方に錦ヵ浦の方向へ向って燃えている。火の手がはげしい。
熱海というところは、埋立地をのぞくと、平地がない。全部が坂だといってもよろしい土地であるが、銀座から来ノ宮へかけては特に急坂の連続だから、火の手は近いが、この坂を辛抱して荷物を運ぶ人の数は少く、さのみ雑踏はしていなかった。
風下の坂の上から、風上の銀座方面へ突入するのは、女づれではムリであるから、仕方なく、大迂回して、風下から銀座の真上の路へでる。眼下一帯、平地はすでに全く焼け野となって燃えおちているのである。銀座もなく糸川べりもない。そのとき八時であったが、当日の被害の九割までは、このときまでに燃えていた。

坂口安吾著『安吾巷談「熱海復興」』

大火により「市役所、警察丸焼け 旅館四十七軒ペロリ(東海朝日新聞1950年4月13日付)」となった熱海の復興は早く、翌日には市議会を臨時招集し、復興費用として「1億円の起債」の発行を決定。16日には復興案を発表し、ここから「燃えない泉都の再建(東海民報1950年4月18日付)」を目指すことになる。土地区画整理事業をはじめとする一連の復興事業が、現在の熱海の街並みの基礎となっているのだが、なぜかくも早く復興案の策定ができたのか。都市計画の第一人者である越沢明は日本の都市計画の特徴について、以下のように述べている。

日本では平常時にはなかなか都市計画が実施に踏み切れず、一つは大震災、大火や戦災という災害後の復興計画、もう一つはナショナルイベント(五輪、博覧会、大礼・大典、国体など)関係の施設整備に限って、都市計画が実行される傾向が存在する。

越沢明著『復興計画』

熱海市はすでに大火の前から都市計画を策定していた。しかしながら、法制度の不備や(その隙間を突いた)民家や商店が密集するなかでは、計画を進めることができず、それは「机上」にとどまったものであった。しかし、大火によって、街がリセットされたのである。誤解をおそれずにいえば、未曾有の災害が、都市計画の遂行に千載一遇のチャンスを与えたといっても過言ではない。復興が「だれしもが予想できないような急速度」で進められた背景には、こうした事情があったのである。大火からおよそ4か月後、「熱海国際観光温泉文化都市建設法」が施行され、「日本の泉都」は「世界の泉都」を目指すべく復興を加速させた。

斜都としての熱海

ここまで「泉都」としての熱海を見てきたが、この街にはもうひとつの顔がある。それは日本有数の「斜都」、つまり「斜面都市としての熱海」である。

西沢明著「日本の斜面都市」より

熱海市はDID(人口密集地域)における傾斜度15%以上の面積が占める割合が日本で2番目に高い町で、これが傾斜度20%では1番目となる。傾斜度とは「100m進むと何m上昇するのか」を意味する。例えば、傾斜度20%の場合、100m進むと20m上昇するのだ。なお、国の道路構造令においては、道路の勾配を「最大で12%」と定めていることからも「傾斜度20%」というのが、いかに急勾配なのかわかるだろう(道路構造令は地域の実情に応じて、弾力的に運用されているため、斜面都市をはじめ最大値を超えた例外はある)。

(坂道に沿ってビルが建ち並ぶ光景は熱海では当たり前)

ところで、日本には熱海のほかに、多くの「斜都」があることはあまり知られていない。1991年に発足した「全国斜面都市連絡協議会」には、小樽、函館、横須賀、熱海、尾道、呉、下関、別府、長崎、佐世保、北九州、神戸の12の都市が加盟している。国土の大半が山間部を占める日本は、世界でも有数の「斜都を抱える国」なのである。なお、北九州は「斜面」の印象が薄いと感じる人もいるかもしれないが、関門海峡を常に航行可能な状態とするために、絶えず海底の土砂を浚渫(さらうこと)する必要があり、また土砂は埋立を用いられるため、平地が年々多くなっているという。

斜面都市のなかでも、熱海は「背後斜面型」といわれる地形で、その特徴は港湾と平坦地で構成される中心市街地を取り囲むように斜面が存在し、直線的な海岸線に沿って、港湾、市街地が細長く形成される点にある。

(ニューフジヤホテル:Wikipediaより引用)

この斜面が多く、平地が狭い地形は、観光地開発の大きな支障となったことは先に述べた。戦後、全国的な経済成長、国民的なレジャーブームを背景に、熱海への観光客は爆発的に増加するが、狭い平地に建ち並ぶ旅客施設や観光施設の大規模化することで、対応しようと試みた。その象徴が1964年に開館した収容力1000人を誇る「ニューフジヤホテル」である。もはやここに江戸、そして明治の時代にあった限られた人にとっての「保養地としての熱海」の面影は感じることはできない。熱海の街が持つ性格は大きく変わったのである。

他方で各施設の大規模化は、さらなる平地の確保を促し、それは埋立事業の拡大・強化につながった。消波ブロックが設置され、埋め立てられたことで、熱海の自然砂浜は完全に姿を消すことになった。

(人工海浜とはいえ、砂浜の復活は
熱海のイメージアップにつながった)

1964年には東海道新幹線が開通。さらに翌年には熱海ビーチライン、熱海新道も開通し、交通アクセスが飛躍的に向上する一方で、日本全体が低成長時代に入ったことにより、観光需要は低下した。熱海への観光客は昭和40年代半ばをピークに減少に転じ、およそ5年で2/3程度に落ち込んでしまったのである。

(サンビーチから眺める熱海
平地が少なく、斜面に建物が並んでいる)

全国的に観光需要が低下していくなかで、少しでも多くの観光客を熱海に集めるために、新たな取り組みが行われた。その象徴が、埋立により消失してしまった砂浜の整備である。1981年には人工海浜の造成に着手、千葉県の君津市から砂を運び砂浜が整備された。これはサンデッキやサンビーチと名付けられ、その様子は「東洋のモナコ(あるいはナポリ)」と呼ばれている。また、各坂道の名称を「坂道再発見事業」を実施するなど、これまでの経済的利益を最優先にした観光事業とは異なり、低迷期以降の観光事業は「海」と「坂」といった熱海の地域性をもとにしたものが多くみられるが特徴である。

次回に向けて(さいごに)

ここまで熱海の街について、「泉都」と「斜都」を軸として歴史的に振り返ってきた。次回は熱海の街にまつわる「宗教」と「交通」について書こうと思う。ただ、構想はあってもいざそれを言葉にして、文章を書くというのは、自分の能力不足ゆえに、多大な気力と時間を要する。いつになるのかわからないので、最後に今回の旅について一言。

去年、今年と師走の時期に熱海を訪ねたのは、大森のある酒場に集うみなさん。

かれこれ6年ほど通うこの酒場で、たくさんの人と出逢い、話してきた時間で知ったそれぞれのロールモデルは、自分の人生の可能性を確実に広げてくれている。先日、別の酒場でマスターが「年齢を重ねるにつれて、友達が減ってくる」とつぶやいていたことが、妙に心に残った。この言葉は、世間では正鵠を得たものようだが、自身に置き換えてみたとき、けっしてそうではない。むしろ「年齢を重ねるにつれて、友達の数は増えている」とすら思っている。それもまた大森のおかげだと信じている。

この記事が参加している募集

散歩日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?