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アメリカのカルチャーギャップ(挨拶編)

 アメリカに留学してすぐに感じたギャップの一つとして挨拶がある。ここでいう挨拶は初対面のあいさつではなく、見知らぬ人と道ですれ違う時のあいさつのことだ。日本では見知らぬ人とすれ違う時、会釈するのが基本だろう。人によっては「こんにちは」と言葉を足すかもしれない。しかしアメリカではー全くないとは言わないがー会釈はしない。代わりに彼らは顎をクイッとあげる。

 運動で言えば全く逆で、こちらが頭を下げるとき、彼らは頭を上げる。こちらが下を向くとき、彼らは上を向く。ほんの些細な違いだが、見え方は全く変わってくるから不思議だ。

 当然、頭を下げるほうが優しく、温和で礼儀正しい印象を持つ。それに対して顎クイッの方はフランクで、強くて頼もしい印象を持つ。これは完全に僕の考えだが、アメリカは日本に比べて治安が悪く、それゆえに見知らぬ人をおいそれと信用できないので、挨拶一つとっても弱さを見せないように振る舞う必要がある。なのでこういった違いが生まれたのだろう。

 似たような理由だろうけど、違うアプローチとして笑顔がある。僕はこれをフェイクスマイルと呼んでいるが、道で誰かとすれ違う時、視線が何となくぶつかるとー経験上、主に女性がー僕に向けて笑顔を向けてくることが多々あった。歯を見せることなく口角を上げるだけの笑顔。愛想笑いとも呼べないレベルものだ。その部分だけでも十分フェイクと呼べそうなものだが、僕がそれをフェイクスマイルと呼称しているのにはもう一つ理由がある。それは彼らの作り出すその笑顔の寿命の短さだ。

 目が合う→微笑む→真顔。このステップを誰もが踏むわけだが、そのステップの間隔は恐ろしく狭い。特に微笑む→真顔の間隔は狂気すら感じる。他人に微笑みかけられて、ポッとほんのり優しい気持ちになったのに、すぐさま裏切られるような感覚を味わうことになる。好意を持たれていると勘違いして、すぐに嫌われるみたいなものだ。僕は最初の頃、これに軽く傷ついたりした。

 しかしこの笑顔は、何も見知らぬ人を傷つけるためにあるのではなくて、笑顔を向けることで、「私は話が通じる人ですよ」とアピールしているのだ。自分は友好的な存在であるということを笑顔で証明している、ただそれだけにすぎない。その笑顔にそれ以上の意味などない。

 前述した顎クイッ挨拶方は基本的に男性がやっているところしか見たことがない。対してフェイクスマイルは女性が主だ。つまりこれらのあいさつ法の裏には、顎クイッ法なら強さを見せることで弱みに付け込ませないようにする意図、そしてフェイクスマイルなら友好的だということを示して、争う気はないということを伝える意図がそれぞれあり、自らの性質に合わせて選んでいるのだろうと僕は考えている。そう考えると、威嚇のような挨拶を男性が主に用いて、逆に協和的な挨拶を女性が主に用いることに納得がいく。当然、この二つはただの例であり、単純に言葉をかけてくる人もいるし、逆に全く挨拶をしない人もいる。結局、人それぞれなのだ。

 単純に言葉をかけてくる場合の例でいえば、アメリカの信号はー僕がいた地域のみかもしれないがーボタンを押さないと歩行者用信号機の色が変わらない。なので横断歩道を渡るときはすぐにボタンを押すわけだが、本当に押されているのか、実際に色が変わるまで確かめるすべがない。この分かりにくい仕様ゆえに、既に誰かが自分より先に信号が変わるのを待っていたとしても、その人が押し忘れている可能性があるので、自分で一応押すというのが習慣となった。

 その逆のパターンで僕が待っているときに、「ボタン押した?」と声をかけてくる人が一定数いる。顎クイッ法やフェイクスマイルの時とは微妙にシチュエーションが違うが、これから仲良くなるわけでもなく、今後会うこともない人とのコミュニケーションという点では同じだ。大抵は「押した?」「押した」の一問一答形式で終わるが、人によっては「調子どう?」と話を広げてこようとする人もいる。これもまた自分は雑談できることを示すことで危ないやつではないということ証明しようとしているのだろう。だとしたら、アメリカのフレンドリーな文化は、その治安の悪さから生まれたのかもしれない。完全な憶測だけど・・・。

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