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日本人の死生観➌ー死生観三層構造ー

こんにちは。橘吉次たちばなきちじです。
日本人の死生観を考えるシリーズ第3弾は、広井良典氏の「日本人の死生観三層構造説」をとりあげます。
死生観のモヤモヤをずーっと持っていた吉次が、深い納得を得たこの説、どうぞ最後までお付き合いくださいませ。
第2話はこちら



「死」の宗教的物語を失った現代日本



仏教やキリスト教の死生観って何となくは知っている。
天国に往くか?地獄に落ちるか?
極楽浄土にたどり着くか?地獄で拷問にあうか?

それを判断するのは、キリストであり閻魔大王だ。
生前の行いや信仰心の有無が、ジャッチの基準となるんだよね。
とっても社会道徳的な考え方だ。
この程度の知識は誰でも持っているだろう。

でも、知識として知っているだけで、ほとんどの日本人はもう信じていないよね。

「ウソついたら、閻魔様に舌抜かれますよ!」

ひと昔前の、子供をしつける常套句じょうとうくも今では冗談程度の効力しかないし、

「悔い改めなさい。さもないと地獄に落ちますよ」

街頭に出現する布教活動中のキリスト教信者の訴えも、年末の風物詩ぐらいに見られている。それほど、日本人は宗教に無関心、無反応になっちまった。

広井氏は、この日本人の宗教無関心を
「中層の宗教的物語を失った時代」の死生観だと捉える。
三層構造は、

  • 表層→現日本人がもつ物質主義的死生観

  • 中層→宗教物語的死生観

  • 古層→自然アニミズム的、原神道的死生観

というピラミッドで表すことができる。

日本人の死生観三層構造

つまり、日本人は、
江戸時代の人々が「当たり前だよ、当然でしょ」と思っていた物語を、明治の近代化を境にバンバン捨てて行ったのだ。
もう、河童も化け猫も、狐つきもノッペラボウもでてこない。

それでも昭和の初め頃までは、地方に残っていた物語も戦後の高度成長期に木っ端みじんに破壊された。

信心深さも
祖先を敬う気持ちも
なんの価値もないものになった。

戦後に生まれ育った私たちは、もう物語を信じられない。
だから、身体という物質がなくなる「死」は、そのまま「無」につながる。

生=有
死=無

「死んだら何もなくなる。永遠に無となる」
すっごく虚無的な死生観なのだ。


ところが、古層があったのだ!


ここまでは、特に斬新な説ではない。
ふんふんと、誰もが納得できる話だろう。
表層と中層までは、理解の範囲内だ。

ところが、まだその奥に古層があるのだ!
これが、モヤモヤを吹き飛ばし、腑に落ちる理解を与えてくれるのだ!

それが、原神道的な死生観だ。
広井氏はそれを「自然のスピリチュアリティ」だと指摘する。

太古、私たちの遠い先祖は自然を神とした。
山、海、水、風、太陽、樹木、土…ありとあらゆる自然物を畏怖いふし、あがめた。
これが、いわゆる八百やおよろずの神々だ。

蛇も熊も、猪も神だった。

ここで、間違えちゃいけないことは、
山とか海とか蛇とかの、物質的存在を神としたのではなくて、
季節の移ろいのなかで、変化し流動する自然の循環に神を感じた
ということだ。

ちょっとわかりにくいかな…

つまり、
冬に草木が枯れても春になると芽吹く
土に潜っていなくなった蛇も、また土の中から出てくる
山に降った雨が、土を通って清水となって湧き出る

これが、死と生の循環で、
生死の循環の中に「いのち」がある、エネルギーがある!
これを畏怖したのよ。

それが神なのよ。

だから、「生と死」は対立するものではなくて、
むしろペアというか、お隣さんというか、当たり前というか…
春が来たら夏がきて、秋になったら次は冬。そしたらまた春がくるねー
と同じ感覚で、
生れて、大人になって、みんなの役に立って、年取って死んだら、
また生まれてくるねー

ってな感じ、ぐるぐる循環する感覚なのだ。

それが証拠に…
そうそう、証拠いっぱいあるのだけど、それは次回に回そう。

今回はここまでの話なんだけど、
大事なことは、この古層の死生観が現代人にも、ちゃんと残っているっていうことなんだよね。


DNAに組み込まれた死生観を思い出そう


私たちは「魂」という言葉をよくつかう。

大和魂
アスリート魂
魂の叫び
魂が震える

でも、「魂」って何?と問われて
こーこーこーゆーものです。
と明確に答えることができない。
でも、魂は「ある」「存在する」と多くの人が信じている

いくつか例を挙げてみよう。
これ知ってる?
シロアリ塚だ。
シロアリ駆除を行っている「日本シロアリ対策協会」が高野山に建てたシロアリ供養塔。

日本シロアリ対策協会設立

シロアリという害虫を駆除している人々が建てた。これ多分一神教の世界では理解できない心情だと思う。
日本には、うなぎ塚、草木塔、魚塚、針供養、人形供養など、生物無生物の区分けなく、その魂を鎮魂するものがたくさんあるのだ。

私たちは、それを結構当たり前に受け止めている。

「まーこの子の頑固なこと!死んだお爺ちゃんみたいだわ」
「ホントに良く似てるわ。生まれ変わりなんじゃない」
よくある会話だ。

お盆には、あちらの世界に往った人が懐かしい我が家に帰ってくる。
死者を迎えて、またあちらの世界に送り返す。
精霊流しも、送り火も、盆踊りも、全部この古層の思想なのだ。

京都五山の送り火

みんな仏教行事だと思っているけれど、
原始仏教には、死者の魂が戻ってくるなんて思想はない。
仏教以前の怖ろしく古い、原神道的な死生観が影響して、独特な日本仏教が成立したのだ。

現代日本人は、この古層の死生観をちゃんと把握したほうがいい。
もうDNAに組み込まれている死生観なんだけど、今はそれ忘れちゃって、
死んだら無になるなんて言う、つい最近の死生観が科学的なんだとか思ってる。

無になることのどこが科学的なのか?
わたしゃさっぱりわからん。
「じゃあ、無って何なのよ?説明してよ」といじわるを言いたくなる。

まあ、いじわるは言わないで、
次回はもう少しこの古層の死生観を丁寧にご説明もうしあげますわ。

では、また

第四話はこちら


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