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“大丈夫じゃない”を教えてくれた「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』をやっと観ることができた。

本屋で大前粟生さんの原作「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」というタイトルを見つけた時から、「ぬいぐるみとしゃべる」行為に共感し、その人たちのことを「やさしい」と表現していたのがなんだか嬉しかった。

その後映画化が発表され、ポスターを見つけた時、ああ絶対に観に行こうと思った。「わたしたちは全然大丈夫じゃない。」というコピーとともに、ぬいぐるみだらけの空間で、ぬいぐるみを持って笑っている人、持ってなくてこちらを見ている人、さまざまな人たちの日常を映していたのがとても好きだなと思っていた。

ホワイトシネクイントに飾ってあったポスター

小説を読んで感じたこと、映画を観て感じたことが、たくさんある。感じたこと全てを書くのは難しいけれど、誰かに話したくなった二つのことを、ここでは綴ってみようと思う。

色褪せたクマ(左)

「恋愛に参加」しないと“異常”に思われる世の中

七森は、「誰が好き?」「誰ならいける?」のような、異性(今回の場合は女性)をモノのように扱い品定めをして笑っている人たちが苦手だ。小説では、高校時代の自分もその一部であったことを悔やんでいる。

そして、誰かと恋愛するのが当たり前な世界に居心地悪く感じている。白城と付き合ったときに「恋愛に参加できた」と喜んでいた姿が印象的だ。

ここに、ものすごく共感した。

恋愛の話が苦手ではないが、あまり仲良くない人と進んでしたいとは思えない。とくに、大して話をしたことがない人に「ところで、彼氏いんの?」と、「好きな食べ物は?」と同じノリで聞かれるのが非常に腹が立つ。その行為の暴力性を考えたことがあるのか、謎である。

一方で私も、七森と同じく異性を「いける」「いけない」で判断してしまっていた時期があった。判断しなければ、「仲間」でいられないからだ。その時期を楽しんでいたのも否定できない。

今でも友達からの「彼氏欲しくないの?」という問いに、「いい人がいないんだよね〜」と答えている自分に嫌気がさす。私もちゃんと“そっち側にいるよ”とアピールしているようで。

七森がかつての自分と今の自分に葛藤する様子、そして「恋愛に参加できた」喜びが、痛いほどわかった。だから、七森がいてくれたことに感謝したい。

「わたしたちは全然大丈夫じゃない。」

差別や乱射事件、自殺、性暴力被害など、毎日異常なニュースが飛び交っている。異常なことを異常と認識できなくなるくらい、私たちは日常に慣れてしまった。

「セクハラとか差別とか性犯罪とか、許せないって、思ってたけど、それも、一般常識みたいな、わたしの問題としてではないものとして、だった」麦戸ちゃんの言葉がいつまでも頭から抜けない。

当たり前だが、辛いと(心の中でも)叫んでいる人たち1人ひとりと向き合うことはできない。誰かの「苦しい」を無視して毎日安定した生活を過ごしていると思うと、絶望する。が、次の日には忘れてしまって、変わらず元気に過ごしている。この繰り返しだ。繰り返しているうちに、また絶望的な気分になる。

それでも私は、衣食住に不自由はないし、誰かに生命を脅かされた経験もないし、あまり警戒せず街を出歩けてしまっている。だから、「大丈夫」だと思っていた。「辛い」と言ってはいけないレベルだと。

本作は、そんな自分に「大丈夫じゃないよ」を伝えてくれた。忘れたけど確かに感じたこと、心に留めたモヤモヤ、親しい友人からのチクリとくる一言…の存在をしっかりと認めて、こちらに教えてくれた。

本を読んだ時も映画を観た時も、いつの間にか泣いていた。本作のように、自分も誰かに「あなたは大丈夫じゃない」を伝えられる人でありたい。そして、誰かに「私も大丈夫じゃない」を言える人でありたい。これから世の中が良くなっても悪くなっても、対話することは怠らず続けたい。

作品を生み出してくださった大前粟生さん、繊細な世界を見事に映してくださった金子由里奈さん、ありがとうございました。私の中にあった“表に出てこれなかった感情たち”が、救われています。辛くなったら、また七森と麦戸ちゃんたちに会いにいきますね。

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