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世界への殺意を失うことを、時代の終わりに恐怖して

7年前、20歳。私は世界に殺意を抱いていた。遅れてきた思春期だ。

自分よりも優れているもの、美しいもの、強いものへの激しい憎しみと、
自分よりも劣っているもの、美しくないもの、弱いものへの嘲笑と、嘲る自分への嫌悪。
ひとつめもふたつめも苦しくて、痛くて、つらくて、もうすべて無くなってしまえばいいのにと思っていた。
全員死ね、と、毎晩思って苦しんだ。

現在、26歳。私は世界を愛している。
空が青くて美しい。春の空気が澄んでいて草の匂いが美しい。
部屋の窓から太陽の明かりが差し込んだり、風に揺れるカーテンが外の空気を巻き込むのが美しい。
私を愛することに努力する人は、私に世界の平穏さと美しさを教える。
私は、私が言うところの「普通の人」になっている。普通に明るくて、普通に感謝して、素直にがんばったりする人。

美しくなることについて努力するのをやめたのは、きっと18歳くらいのときだった。
美しいものを美しいと思う・いいものをいいと言う精神を嘲笑することが、
自分にとって、手軽にアイデンティティを確立する唯一の手段だった。
そんな自分を醜いと軽蔑する視線や言動に、自己責任で傷ついた。
傷ついて、その軽蔑の持ち主を心の底から呪い、憎み、殺したいと願った。

いま、結局、最終的に、私は美しくなりたいと願っている。
安室ちゃん、エビちゃん、ガッキー、みたいな、そういう美もそうだし、
“酒の席で50代男性のハラスメントをにこやかに受け流しながらビールを注いでサラダを取り分ける”みたいな平成初期っぽい美もそうだし、
いわゆる“自分を信じているあなたが美しい”みたいな、平成末期っぽい美もそうだし、
とにかく、何らかの形で美しくなりたい、と願い、もがき、苦しんでいる。
美しくなりたいと願う気持ちの奥には、世界を呪う気持ちも、愛する気持ちも、混在している。

何らかの美を目指して、ジムで限界を超えるか超えないかの重りを乗せたマシンを上げながら、
私を選択してこなかった社会や、私を醜いと嗤った男女や、私を軽蔑した視線と言動を思い浮かべる。
自然と、「限界だ」という弱音がおなかの中からふわっと消えて、
自分史上最大の重量が上がる。
社会や男女や視線や言動やあれやこれやがどろどろと溶けて「殺す」だけがアドレナリンとなって残る。
殺す、あるいはお前たちを超えたい。

殺意をおぼえるタイミングは、ジムだけになった。
来る日も来る日もひざを抱えて世界を呪っていた7年前とは異なり、
今はダンベルに触れていないと、世界をどうしても愛してしまう。

徐々に消えていく殺意と反比例して、心が清くなっていくことへの恐怖が増幅する。
痛みや苦しみや自己嫌悪と引き換えに、私は他者の痛みや苦しみや自己嫌悪を理解する自分を手に入れた、と自分で思っている。
世界への殺意が、ガッキーみたいに美しくなりたいという気持ちの原動力の大半を占めている。
殺意を失うと、大事に大事に撫でて守って愛でてきた自分の傷が消えてしまう。

美しい調和。
「「普通の人」」を嗤うことで確立したかりそめのアイデンティティは、
そこから生まれた劣等感と殺意は。
たぶんきっと、いや確実に、本来の意味での「うつくしさ」とはかけ離れたところにいる。
新しい時代にうつくしい心で、オーガニックに美しさを求められたら100点。
きっと私は、しばらく社会の枠組みにとらわれて、
世界を呪ったり、愛したり、その憎しみと愛の遠心力で三半規管がダメになったりしながら、
もう少し苦しんで生きていく。

ありがとう、平成。
うるせえなあ、もう死んでくれ。

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