囲碁を打ちたくなるとき。
日曜日の昼間、なにを血迷ったかカッコつけてNHKの落語番組を見る時期があった。18歳くらいのときだと思う。
なんかわかんないけど、尊敬できるお笑い芸人はみんな落語が好きだと公言していて「たしかに、教養を高めるためには落語はアリだな」と思った私は、落語をみることにした。
聞いて2分くらいで、よくわからなくて、みるのをやめる。ストップ落語。
今度こそはと思って別の日、またNHKの落語番組をみる。今度は5分。だけどよくわからないのでまた挫折。落語を理解するのは難しい。
落語には「知っているとなんかカッコいいし、教養がありそうに見える」みたいな邪な考えが付き纏う。私の場合はね。
これと同じ構造が「囲碁」にもありそうな気がするのである。
私の少年時代、ジャンプ漫画では『ヒカルの碁』が連載されており、アニメ化もされた。
平安時代の囲碁ヤロウの藤原佐為が登場する漫画であり、なんか知らんけど、本因坊秀策なる人物の名前が出てくる。江戸時代の伝説の囲碁棋士だ。
藤原佐為、本因坊秀策……。
カッコ良すぎる。
なんだこいつら。
このネーミング。本因坊秀策にいたっては江戸時代に実在した人物ということで、こりゃまたなんかカッコいい。
囲碁を打ってみたい。ヒカルの碁に出てきた「天元打ち」もやってみたいじゃないか。というわけで、お母さんに相談。
「母さん、おれは囲碁が打ちたい」と言ったのは厨二病まっさかりの14歳くらいだったはずだが、母さんの反応は早かった。
それを聞いたら即行動である。
おばあちゃんの家に行って、じじの囲碁セットをかっぱらってきた。白と黒の碁石と、限りなく正方形に近い形の木の碁盤。完璧だ。よし、これで私も本因坊。
近所の公民館に行って、囲碁の本を借りてくる。なんなら、アニメ『ヒカルの碁』ではカンタンな囲碁の打ち方も解説してくれるではないか。
なんとなくの打ち方を覚える。人差し指と中指で碁石をもって、盤上に石を打ってみる。パチン。なんだか気持ちがいい。ふむふむ、囲碁はオセロとは違うんだな、なんて思いながら。
ところが、いくら本を読んでも、いくらヒカルの碁を見ても、いまいちルールがわからない。黒と白の石で、より広い陣地をとったほうが勝ち、ということはわかるんだけども、その奥が理解できない。
はて。
そう思って次はNHKで囲碁番組を見てみる。なんか知らないけど、プロの囲碁棋士が戦っている。なんか長いこと考えて、石をパチンと打つ。ふーむ。解説のメガネのおじさんが「いい手ですねぇ」と言う。理解ができない。まったく理解ができない。
はて。
そう思って次に新聞の囲碁欄をみることにした。これもよくわからんけど、新聞には毎日囲碁と将棋の対局図みたいなものが載っていて、日々更新されていく。
新聞に載っている囲碁の図には石に番号がふってあって、番号は石が置かれた順番であることが理解できる。でも。
理解ができない。やっぱり理解ができない。
どうしたら勝ちなのか、どうしたら陣地が広がるのか。
ぜんっぜん理解ができない。
こうして、じじからかっぱらってきた囲碁の碁盤は、ただの物置台になってしまった。
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