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紀伊路全体を歩き通すからこそ見える、歴史やつながり(上野正芳/日本経済新聞記者)

日経新聞記者の上野正芳さんは、熊野古道が世界遺産に登録されて20周年となる2024年に合わせて、半年以上にわたる長期連載「熊野古道を歩く」を執筆されました。熊野古道の中辺路や小辺路、大辺路を歩き通して取材し、周辺に暮らす人々の営みや、巡礼道に根付いた歴史や文化を伝えてきました。

紀伊路SCAPEのメンバーとも紀伊路を6日間歩き、その道中の一部は連載でも紹介されています。ともに歩いた紀伊路の道のりについて、振り返っていただきました。
(連載「熊野古道を歩く」の紀伊路編

――熊野古道には色々なルートがありますが、その中でも紀伊路を歩いてみた印象は?

同じ熊野古道と言っても、街中から山中へと景色や雰囲気が変わっていくところが、中辺路や小辺路とは全く違うと思いました。

旅の序盤の大阪は自分にとって馴染みのない土地でしたが、何となく持っていた都会的な印象だけではない一面もあることを知りました。例えば、夕陽丘という地名が近くに残る四天王寺で1日目に、鳥居の向こうに夕陽が沈む様子を見た際、「昔はその先に海が広がっていた」と聞いたことなどがそうですね。

大阪市内から南へ向かうと都会的な雰囲気は薄れて、また違う街の顔を見せてくる。そして和歌山県に入ると、昔ながらの雰囲気が漂う景色が広がっている。
人の手が入り開発された市街地を通る熊野古道と、山の中を通る熊野古道、その2つのコントラストを見られたことが面白くて、「熊野古道はこんなに多彩な道だったのか」と驚きました。

――四天王寺のように、昔の風景と現在の風景を頭の中で照らし合わせることは、各所でされていたんですか?

「どうやって昔の人はこの道のりを歩いて行ったんだろう」という疑問がずっと頭の中にあったので、昔の様子は度々想像していました。
特に大阪だと、建物が建ってしまって迂回しなければならない箇所や、かつて道が通っていたところが特定できない箇所もありますよね。そういうところは頭の中で想像して、昔に思いを馳せました。

――紀伊路ならではの思い出はありますか?

和歌山県海南市にある鈴木姓のルーツとされる「鈴木屋敷」から、山中へ入っていく藤白坂です。それまでずっと街中を歩いていたところから、急に本格的な山道へ切り替わるので、歩くのはなかなかつらい。
でも、登り切ると「御所の芝」という景勝地があって、和歌浦から淡路島までを見渡せるんです。

藤白坂は、悲劇の皇子「有馬皇子」が謀反の疑いで捕えられ、この地で絞首されたと言われていて、皇子が詠んだ歌の歌碑とお墓があります。さらに南へ進んだところにも有馬皇子の石碑があるので、歩き通すことで関連性がわかり、歴史が見えてきます。
短い区間を歩くだけではわからないけれど、全体を眺めるからこそつながりがわかるのは、紀伊路を歩き通す醍醐味ですね。

あとは、有田市内に入ってから、ちょうど収穫期を迎えていたみかんがたくさんなっているのも良い風景でした。更に南の方へ降りていくと徐々に、みかん畑が梅に変わっていくのも興味深かったです。

道中では皆さんと一緒にみかんを買って食べましたが、その際に関心を持ち、熊野古道の連載と別で、有田みかんについての記事も書いたんです。なぜ有田みかんはおいしいのかや、全国のみかん10個のうち1個は有田みかんを占めていますが、なぜそれほどの名産地になったのかを掘り下げて取材しました。

――まさか紀伊路で味わったみかんから、別の取材にもつながっていたとは…!

旅の中では改めて、食は大事だと感じましたね。
連載では毎回、「味な寄り道」というご当地グルメを紹介するコーナーも書いていました。中でも特に、タチウオやウツボがおいしかったです。
僕はダイビングをするのですが、ウツボは海の中で見ると怖いので、「本当にあれを食べるの?」という思いも、実は食べる前はありました。

――取材ならではの、紀伊路の見つめ方をされていますね

紀伊路ではないのですが、田辺市街地から滝尻王子へと続く熊野古道で、現在一般的なルートとなっている富田川沿いの道と、かつて歩かれていた潮見峠を越える道と、両方歩いたんです。
両方歩いたことで、熊野古道という道がどうやって変遷していったのかが見えた気がしました。道は通行人が多くて利便性が高い方がメインルートになるという自由さがあって、かつて栄えていた道でも時代や状況が変われば廃れていくんだな、と実感しました。

――取材のため、事前に色々と調べた上で歩いたと思いますが、熊野古道にまつわる歴史や文化で印象的なことはありましたか?

熊野三山は昔から庶民や女性を受け入れてきたことは知られていますが、実はハンセン病患者も参詣していたと言われています。湯の峰温泉のつぼ湯に入って疲れを癒やして、熊野本宮大社を目指した人々が多くいたそうです。何の区別もつけず、どんな人でも広く迎え入れていたことが素晴らしいと感じました。実際に歩き終わってから、その思いは改めて強くなりましたね。

あとは、江戸時代だと江戸の人々は伊勢神宮にお参りして、その後のお楽しみとして伊勢路を歩き、熊野速玉大社も参拝したそうなんです。聖なる巡礼のためにストイックに歩くだけではなく、楽しみながら歩いていたゆるさや間口の広さも、昔から変わらない熊野古道の魅力ではないでしょうか。

――今回、なぜ熊野古道を歩き通す取材をしようと思ったのですか?

実際に歩き通すことで、周辺地域での暮らしが見えるのではないかと思ったからです。どうやって地域住民の方々は熊野古道と生きてきたんだろう?どんな営みを行い、生活してきたんだろう?という疑問がありました。
目的地まで車か電車で行き、話を聞いたら直帰するという形ではなく、記者の原点に帰り、実際に歩いてそこにある暮らしを見つめれば、少し違った視点で熊野古道を紹介できるのかもしれないと考えました。

――長期にわたり、いろいろな地域で取材をされてきました。印象的な人や話があれば、教えてください

先程有田から南下すると、みかん畑から梅農園に風景が変わると言いましたが、梅の産地の田辺市内でも、内陸の秋津野という地域へ行くと、みかん畑の方が多いんですね。そこで色々な種類のみかんを栽培して改良もしている農家の方がいたりとか、他にも田辺市本宮町でお茶を栽培・販売している20代の女性がいたりと、その土地で頑張って何かに取り組んでいる方々の姿が印象的でした。

あとは、熊野古道の周辺地域はどこも過疎化・少子化が進んでいて、高校を卒業したら都会に出る人が多いと取材を通して聞き、何ともしがたいと感じていました。
串本町でのロケット打ち上げを3月に取材したのですが、ちょうどこの4月から地元の県立高校に宇宙専門のコースが新設されることになりました。なぜ新設されることになったかというと、「今後宇宙関連企業が集まれば、地元での就職先の選択肢が増えるだろう」というねらいからなんだそうです。

田辺市中辺路町でも廃校の校舎を活用して、小中一貫の私立学校が新設される計画があります。コロナ禍では長野の軽井沢などに教育移住する人が増えたので、こうしたケースが熊野古道でもうまくいって、好循環が生まれる可能性があるのではないかと思っています。だから、熊野古道の未来もきっと明るいと僕は期待しています。

《プロフィール》
上野正芳 日本経済新聞社 記者
2023年3月まで同社和歌山支局長を務めた。4月より大阪本社にて文化を担当。

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(連載「熊野古道を歩く」の紀伊路編

(連載「熊野古道を歩く」第1回)


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