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やっぱりどう認識するかは大事なのだろうか..

何かをどう見るかはとても悩ましい問題だ。
何かという曖昧さと、どう見るかという少し頭の良さそうな言い回し….
全てが重なりさらに悩ましそうな雰囲気を作り出している。

少し真面目に今日今から書きたいことをまとめると..
多分こんな感じである

何かを見るということは
何かを見ているわけである…
つまり何かを見ているということは
”どうにか”してそれを見ているわけで….
それをどうにかまとめると

つまり何かしらをどうにか見るということは
結局どのように見るかという問題に行き着くのである

つまるところ
この妙な頭の良さそうな文章の隙間にある
ニュアンスの違いをどうにか書き出したい…
今日の目標はそんな感じになる。



今回書きたいこと

実のところこんなことを書こうと思ったきっかけがあった。
知り合いと話していた時に、ちょうど以前書いた記事のような話をすることになったのだ。

つまるところ
もしそもそも基準が存在しなかったら
僕たちは自分たちで作り上げた虚無の基準と物差しの上を行き来しているということになり…
そんな状態でどう生きるか見たいな妙な話題になると
どう、行動していいのか…全く思考の方向性が定まらなくなってしまう….
そんな感じの話だった。

そんなことを知り合いに話していたら
あっさりと、まずは"どう認識しているかということを整理しないといけないんじゃないの"と言われたわけである
(1ヶ月ぐらい前に。私は怠けに怠け今書き始めた)

どう見るか

さてどう見るか..これは悩ましい問題である
僕たちは色んな見方をすでに生み出してしまっている。
その見方を取り入れて世界はこうやって見えているんだとよと
話を進めるべきなのだろうか…
それともその見方は結局本質をついているかという話をするべきなのだろうか。
しかしそんなことを話していたら
言葉で綴った文章などなんの意味も持たなくなってしまう気がする
(この一文は本当に思ったのだが、しかし同時に甘えもある面白い文章な気がする)

まぁだけどまずは基礎を崩すところから始めるのがいいのだろう…
多分

基準とは何だろうか
言葉だろうか..視覚だろうか、もしくは聴覚や嗅覚
五感もろもろなのかもしれない…

ではそれをごっそり取り払うと..
もう話にならない気になってくる

そんなこと経験したことはないし…
そして想像の上ではかなりつまらなそうな世界だ
(ありのままの感想であり..自分の経験したことのない世界が時々つまらなそうに見えるのは普通のことの気がするという自己弁護を付け足させていただきたい)

僕は耳と目から情報を取り入れまくるのが大好きだし
あわよくば鼻も動かしたい、
そして体を適度に動かしたい常々思っている。
(私の健康のために….)

だが情報がない時も、情報がある時も一貫してあるものはなんだろうか…
決して自我ではない
"我思う、故に我あり"はしっかり感じている..
となると情報なしの状態では何もなく…
つまり情報なしの状態では意識というものがあるない関係なくそれを知覚することはできなく…
それはぁもうブラックボックスの中に入ってしまうのだ。

意識のつかみどころのなさ

これは悩ましく、意識の存在そのものの認識の狭さがすでに問題にあがってきしまっている。
神様にもう一度設計図の作成をお願いするべきかもしれない….
どうか何も感じず全てを感じるようにしてください
(少し大袈裟かも)

だけどこれは言い換えると基準ができている
感じれば存在し
感じなければ存在してない可能性がある

これは日常生活にも言えることだ
私は今カフェ..?コーヒーショップでカタカタとこの記事を書いているのだが
周りが気になって仕方がない
家にいる時の5倍は書くスピードが速いがその2倍は疲れている気がする

話が逸れたが
私は自分の記事に集中しているわずかな瞬間周りに
人がいないかもしれないという可能性の中に存在することができるのだ
(まぁ目の前の人が美味しそうにパンを食べているのが常に気になってしまうのだが)

もしかしたら
こういう微妙な一点に関していうと
感じずに感じることのできる機能を作らなかった
製造主に感謝するべきなのかもしれない。

だが意識だけに関して言えば
それは知覚しているだけで
特にどう見るかという問題には関与していない気がしないだろうか

情報は常に狭まって意識に到達する

情報の狭まり

まず目の前に花があり
そこから視覚を通して脳に到達し
(もちろん心臓でもいいのだが)
そこらへんでマジックが起こり意識に到達して

花の後ろでトトロがでんぐり返しをしている情報が消え去るのである
(子供は見えるのかもしれない)

そう考えると、意識を向ける場所が最初から範囲を作り上げてくれていることは
有難いこともあるのかもしれない
(トトロが見えないのは心残りだが)

僕は世界の神秘が赤外線に秘められているかもしれないという
希望を持つ必要がないのかもしれないのだ…

しかし問題はいろいろある
この限られた情報を見た意識は
何かしらの魔法の力により
そこから自分の役に立つものを見つけ
どうにか行動を作り出そうとするのだ
(意識は見てるだけかもしれないが、ニュアンス的な話だと思って聞いていただきたい)

この魔法の中身を探ろうという話を以前していたわけである。
そして見事に失敗した…
だけど面白いこともある...
つまり魔法の渦は情報を見ないことはできない
という憶測である

魔法の渦から出力は狭まっているようであるが
渦に入っていく情報には狭まりはあるにしても
純粋さを感じることができる…

不純さ

さて出力にある不純さとはズバリ編集された部分である
例えばペットボトルの蓋は左回しであるとか
(確か)
寝癖は私の人生において飛行機雲より身近な存在であるとかもだ

そしてこの不純さの作り出し方の基準は何かという疑問
そこにまず到達したいのである

まず基礎となっている一つが
受け身であるということだろう
情報を受け取りそれに対しての反応として
不純さを作り出す…

そして不純さのすごいところ
存在していないものを作り出すことができることだ
いわゆる意識を見ていても
それが幅を持っていることを感じることがある
目の前のてが動いていることをどう感じるのだろうか…

どうずれを感知するのこれは面白いからくりがある気がする
今という瞬間と他に
存在していないはずの過去を意識は感じているのである

ここで目的があり
その目的に足りないものを補う能力が
魔法の箱の中に収まっていると考えると面白い気がしないなだろうか。

箱の中で作り上げたもの作成過程を少しだけだが
見つけ出すことができるかもしれないのだ

となると目的とは何なのだろうかという話になる
目的ができがる過程が欲しい…

生物という中でといわゆる石と生物の間に存在する
微妙な違いが意外と何故生きるのかとう
問いにヒントを出してくれる気がするのだ













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